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構図
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小林和作
海

 私は近年では絵をかくのに構図に最も苦心する。かく方は割合に無雑作にかくのだが構図にはいつも困る。私は風景を主とする画家なのだから、風景画はなるべく一枚毎に確定的な構図と手法に拠りたい。人物や静物の時には、私はこれによって私の面目が立ったり消えたりするものでもないと思うので、大体モデルを前に置いてそのまま油絵具でかく。構図を別にひねくる事がないので気が楽である。
 然るに、風景画は絵の本芸ともいうべきものだから、私の芸術観がなるべく濃厚に絵の上へ出ていないと気がすまない。私は近年は風景画を油絵具を外へ持って出て直写した事は殆んどない。これは荷物が多くなって厄介だから年と共に止めたのでもあるが、本当の理由は構図を大切にするからである。
 風景はどこにでもあるが、私の好みに合う形と色をどこかに持ったものでなくば私は顧みない。そこで絵をかく支度として日本紙と水彩絵具を持って構図を捜しに、尾道付近を歩いたりまた漂然と遠地へ旅したりするが、そうして多くの写生をする。しかし、これは私は絵ではないと思うので発表はしない。それを家へ持ち帰って当分、或は何年も放って置く。そうして時々出して見る。その中から油絵にかける何かの足がかりを、私がその写生から見付け出したものから取り上げて本当の絵としてかき始める。
 しかし、これでも中々絵になり兼ねる。多くは確定した図形と色彩の配置にならぬような気がして中途で投げる。こんな風にして構図を選択するのだから、紙へ写生したものの何十枚かの中に遂に役に立つのは二、三枚しかない。時には一度の遠い旅行から得た多くの写生が一枚も役に立たぬ事もある。現地へ坐り込んで、紙へ写生する時には、何かの興味のある場所をかくのだから気がはずんでいる。こんな写生が多く溜まるとその旅行から帰る汽車の中は楽しい。しかし、これを家へ帰って暫くして検閲すると、大抵の写生は私が取上げて油絵にかく程の、確定的な美しさを持っていない事がわかる。これでいつも失望する。
 失望しただけではどうにもならないからまた旅へ出る。そうしてまた多くの写生をする。しかし帰っては失望する。こんな事を繰り返すのが近年の私の絵の上の最大の努力である。つまり私は構図という青い鳥をいつまでも捜し廻る一人のさ迷える日本人である。チルチル、ミチルは子供だからよかったが、白髪の私がいつまでも青い鳥を捜すのは悲惨であるが、これが私の宿命であろう。
 構図というものはかくの如くむずかしいものと私は思う。かく構図に神経質な私から現代の日本の洋画を見ると、多くの人は構図を一向に苦心などしていない。これは油絵具が便利なものだから、かいていれば不確定な構図でもまとまる事が多いので、絵をむずかしく考えない人はそうなるのであろう。しかし私のようなものが展覧会を見て廻ると、安易な不自然な構図の上にあぐらをかいている暢気な絵が多過ぎるようにも見える。これでは中々世界的な水準には到達しないであろう。
(昭和二十六年)
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