小林和作>エピソード
人生観
前へ  次へ
小林和作  私も長く生きたのでいろゝの経験がある。それについて処世上の参考になりそうなことをかく。「この世に不思議はない。」私はこの年になるまで、妖怪変化とか神通力とかと思われるものに一度も会ったことはない。幽霊など出そうなものだが、私へなど姿を見せても仕方がないのか、それらしいものを見たことがない。他人を恨んで祈り殺してやりたいと思う人もこの世には数々あるだろうが、念力が届いて祈り殺された人をまだ見たことはない。恋愛をして一念が相手に通ずるために信心などをする人も多かろうが、そんなマドロッコイことで成功した人はないだろう。
書斎にて  世の中にはありもせぬことを信じたり恐れたりする人が多いが、そんなことをしていてはその時間だけが無駄でその人は損をしているのだと思う。根拠のあるもの、目ではっきり見得るものだけを信じてそれに対する処理をテキパキとする人でなくては偉くはなれないと思う。しかし人を恨むとすれば、直接なぐりつけるのも一法だが人をなぐってはこちらも世人からバカに見られる場合が多いから、それよりもこちらが何かを勉強して偉くなってその怨恨など早く忘れてしまうか、相手を乗り越えて先へ進んで相手を後悔させるか羨望させるかがよいであろう。
 恋愛をしたら、相手が「それだけ立派な相手か」どうかよく考えて「立派だ」と確信すれば、自分が直接行動に出ずに親兄弟に話して早く先方に通じてもらうがよかろう。こちらが適当な方法をしても相手の方で応じないのならそれは大抵駄目だから潔ぎよく手を引いてしまうがよかろう。残念だと思っても仕方がない。この世には不思議なことは一つもないが、不可解なことは山の如く多くある。
 むしろ人世は不可能な事だらけであるとも言える。その中をしっかり歩いて障害物を乗り越えてゆけば、始めは不可能だったことでも今では可能なことも大いにある。恨み骨髄に徹する思いの相手でも、どうかすれば先方から詫びてくることもあるだろう。一度は断られた相手でも、先方でも他の何事かに失望して思い直して、こちらへすがりついてくる場合もあるであろう。その人の持つ能力と信念とで適当に処理して不可能なことを可能にしてゆくべきで、そこらに人世の最大のゲームがあると思う。上級学校へ進むことも就職も結婚にも始めからうまくやる人は少い。現実的に努力して道を切り開いた人のみが好結果を得るのである。
 しかし、運というものはある。同じように出発し、同じように努力しても、一方は成功し他の一方は駄目になることは世の中に多くある。しかしこれは運の発動の工合を大ザッパに見た場合のことで、細かく入念に見れば、運もその人の努力を離れて補捉し難い不思議なものとして発展してゆくのではないと思う。その人の遺伝や隠れたる素質などをくわしく調べてゆくと、成功した人にはそれだけの幸運を呼ぶだけの原因があり、他の一方にはそれがなくて、大切なところで運の附き方を外す様なヘマな事をするのであろう。
ソファーにて  運も、その人の行為の集積が、例えば電子計算機で計算したように確実に現れるものかもしれない。その広く長い間のことが、ある場合にはあまりに早く計算されて結果的に幸運域は逆運として現れるので、運は人力で及ばぬ不思議なものが伴うように多くの人が思うようである。不思議を信じない私のようなものでもまだ、運の働き工合には不可解なところが多いような気がして、恐れ訝ぶかっている。
 しかしよく考えてみると、運の動きには不可解なところは極く僅かで、他の九割方は明らかな原因があって、その結果が運となって現れるのであろう。怠ければ、人から叱られ、うとまれ、勉強すれば、はっきり成績がよくなったり褒美をもらったりする。小さな運の動きはかくの如くに行為がすぐ結果となって現われる。世間のことは大体こんなもので、何の不思議がなく解決できるのだが、しかし大きな運の来方にはどうもわからぬところがあり、どう考えても直接の原因がないのに極端な幸運や逆襲がくることが人の一生には数度ある。その時には弱い人はまごついて、神業だと思ってしまったりする。
 よく考えてみると、神も仏も、この世には人間が信ずるような形ではあるものではない。人間は元来幸運に対しても、逆運に対しても極く不安定なところに立つ弱いものである。神業でも何でもなくても、人間世界の波が少し大きく打ち寄せると、それが大きな結果となってその人に影響を及ぼすのである。
尾道  私はよく荒海の海岸の岩の上で海を写生するが、波は大体同じような時間の間隔で、同じような高さで寄せて来るものだが、一時間に一度ぐらい何の原因もないようなのに非常な高波が寄せて来てずぶ濡れになることがある。しかしその後はまたもとの平常な波に返る。
 人生にもかくのごとき高波がある。それにうまく乗るか、それに押し流されて崩れてしまうかが運の別れ目になるであろう。何故こんな不可解な高波が身辺を襲うかはどうもわからぬが、古来人間は大体は平穏に暮しているが、時には烈しい変動がその人の身の上に来るものである。しかし、それも全く原因がなくて突如変動だけが来るのではなく、その人の蒔いた種がとんでもないところに育って、結果が蔽いかぶさって来るのであろう。
 しかしかかる烈しい変動は期待すべきものでもなく、またいかに注意しても変動の方が不思議なような形で来るので妨げるものでもない。人は平生努力してその人の当面の仕事に向い、大体は正直に世間の道徳に従って営々として堅実に生き、またいかなる災害に対しても不動の姿勢を保つようにわが身を訓練しておけばよかろう。
(昭和三十七年)
前へ  次へ