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私の画歴
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小林和作 小林和作  私は明治二十一年に山口県吉敷郡秋穂町で父小林和市の二男として生れたものである(しかし兄が幼い時に病死したので、私は長男として扱われて成長した)。
 その後、秋穂町の高等小学校を卒業して、後十七歳の時に、京都市立美術工芸学校日本画科に入学した(この頃は日露戦争の最中で、世の中は騒がしかった)。
 この学校の日本画科の教授陣は、竹内栖鳳、山本春挙、菊池芳文らの諸先生で、なかなか充実していた。私は不器用で絵は下手であったが、とにかく卒業し、すぐ後に川北霞峰先生の画塾へ入った(この川北先生は菊池芳文先生の高弟で、美術工芸学校の日本画科の助教授でもあった)。
 その二、三年後に美術工芸学校の上に、京都市立絵画専門学校が出来たので、それへ入学した(一方では川北画塾へ通学しながら)。この絵画専門学校の絵の教授に、その頃は専ら竹内栖鳳先生が当って居られたように思う。私は怠けてばかりいたが、とにかくこの学校を卒業した。
京都時代  美術工芸学校時代には、私より一級上に、村上華岳、榊原紫峰君らが居り、四、五級下に、福田平八郎、堂本印象君らがいたが、私の同級生の中には絵の方で有名になった者はいなかった。
 絵画専門学校の方では、私共の一級上で、最初の卒業生の中には、村上華岳、土田麦僊、小野竹喬、入江波光氏らがいたが、私と同級には、山下摩起、水越松南二君の外は目立つ者はいなかった。
 しかし私は画運は良い方であった。その頃の官展であった文展に日本画で二度入選し、二度目には入賞した。しかしその後は地金が出たのか、落選ばかりしていて、日本画がいやになっていた頃に私の父が死去して、その遺産としてやや大きな金銭が私の手へ入ったので、大正十一年秋にそれまでの日本画家生活を止めて、一家で東京へ移り、洋画家生活を始めた(それまでにも京都在住の洋画家鹿子木孟郎先生の画塾へ遊び半分に通学していたこともあったが)。
初期の作品第一号  東京へ出てからは、東中野駅近所の広い家に住んでいた。洋画のことは一向わからぬのでまごまごしていたが、ここでも運よく梅原龍三郎、中川一政、林武などの諸先生の知遇を得て、その門へ出入していたので、絵は割合に早く進歩したように思う。私は体質的には入念な彩色をする日本画には不向きだったが、フォーブ風の油絵の画風には適合した一面もあり、又色彩を扱うことは初歩の時からうまい方であったので、ここらで度胸を定めて洋画家になってしまった。
 春陽会展で二回つづいて入賞し、その翌年には春陽会員に推挙された。その頃でも洋画家で私のように出世の早い者は少なかったであろう。これは私はそれまでに日本画の方の画歴が十八、九年あったので、それも加算されたためかとも思う。
 私は昭和三年の一月から四年の初夏まで、欧州へ行って絵をかいていた。その間イタリアへ半年、フランスの南方のセザンヌの生地であるエクス・アン・プロバンスへ半年いたのだが、これは私の絵の上に大いなる好影響を与えたと思う。絵の中では、イタリアの古い時代の絵と、フランスの近代画の始祖であるセザンヌとが最も立派に思えたからである。
 その後帰国してからは、又、元の怠け者に返って東京でぶらぶら遊んでばかりいたが、私の財産を管理していた大阪在住の弟が株式で失敗して私方の全財産を失なったので、理財的には無能な私は仕方がないので昭和九年に居を広島県の小都市尾道へ移して待機したものだが、尾道での生活も別に悪くもなかったので、そのまま今日に到っている。
 その昭和九年に春陽会員を辞退して、独立美術協会の人たちの招きに応じて、その方の会員になって今日に到っている。
自宅アトリエ  尾道へ来てから四十年になるが、その後の私は財産は激減したので、今迄通りに遊んでばかりいては生きて行けないので、そこで、始めて目を覚して本式に絵の勉強をすることにした。風景画家である私としては、勉強法の第一歩は、美しい風景を入念に写生しつづけて、自然の構成や色彩を徹底的に知ることにあると悟ったので、その後はその方法でとにかく真剣に勉強した。
 その辺で天助を得たものか、私は画家としての地位をやや確立し、年齢も今は八十六だが、割合に健康で大体絵も毎日かいている。
 尾道へ移り住んで以後の私は、だんだんに一種の悟りを開いて、絵の上では東京辺の先輩や友人たちの影響を離れて独立することと、絵の第一歩は構図だと思って、美しい構図を捜し廻ることに努力した。そのために、私はその後三、四十年の間に、日本全国の海や山の名所は大抵歩いて、紙に鉛筆で入念に写生し、それに水彩で着色する私流の写生画を作って廻った。それが異常に熱心であったので、私の手許には、その方法での写生画が一千枚以上も残っている。これが他の先生方の影響からだんだんに離れて行って、所謂、地方での土着画家、或は民衆画家としての地位を確立しつつある。
 これでよいのかどうか知らぬが、他に仕方がないから当分はこのままで行くつもりである。
(昭和四十九年)
荒海
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