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老人はほらを吹け
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小林和作  私は懇意な人達に向かっては「老人はほらを吹け、陰気な老人は人の悔りを招くからいけないぞ」といっている。
 嘘をいうのはいけないが、物事を二、三割方誇張していうほら吹きは愛嬌者で、この世を賑やかにするのだから悪くないだろう。
 私は三十何年も地方の小都市の尾道に住んでいて、東京へは全然といってよいほどに出ない。京阪までは近いから時々出るが、とにかく多年、都会へ住まぬ田舎絵かきである。それが何をいっても、世間に障ることもない筈だから、ここにばかなほらを吹くことにする。
 私は画家の中では批評眼はある方だと思っている。私は大正十一年にそれまで七八年もやっていた日本画家生活を打ち切って、油絵かきになるつもりで東京へ出た。しかし油絵方面のことは全然知らず、どの先生がどのくらいの地位の人かどは何も知らなかった。そのぽっと出の私が、いきなり梅原龍三郎、中川一政、林武の今日名声隆々たる三先生のお宅を訪れて、三先生の弟子になったのである。その頃は梅原先生は既に大家であったが、年齢は私と同じである。中川、林、二先生は私より年も若く、かつその頃はたいした画家ではなかったように思う。私はそれまでにも三先生の作品は見ていて、日本の洋画家の中ではこれらの先生の絵が最もよいと思ったので入門したのである。梅原、中川二家へは月に二、三回宛参上し、林先生は気安い人であるから、私どもの住む上落合へ来て住んで頂くことにした。
 とにかく何もわからぬ洋画の一年生としては目標は正しかったと思う。もし私が他の先生方の家を出入したとすれば、私の絵は今のようなものでもなく、もっと駄目で、かつもたもたしていただろうと思う。
 それから私は昭和九年に東京から尾道へ移り住んで今日に及んでいるのだが、大抵の画家は長く田舎へ住んでいると埋まるのが常である。然るに私は埋まりはしない。それは私には生来の批評眼というか、方向探知機のようなものが身に備わっているからと思う。都会の画家や外国の画家の作品は、主として印刷物で見るだけであるが、それでいてたいして方向を誤らずにいるのはおかしいではないか。
 私は自分でいうのはおかしいが、大正十年に父が死んで、その遺産を今の金でいえば三十億円ぐらいを相続した。その金で、その後十何年かの間は法外なぜいたくとばかな振る舞いをしていたら、昭和八年頃になって、財産を管理させていた弟が株式で大失敗して、私の財産は全滅してしまった。一時は途方に暮れたが、仕方がないから尾道へ移り住んでひっそりと暮らすことにした。しかしこの「退却」が私に幸いして、私は今日ではとにかく絵かきらしくなり、田舎の空気が健康によいのか年の割合には健康である。梅原先生は、時々私の噂をされて「小林は昔のままなら素人絵かきで終わったろうが、尾道に引っ込んで勉強したので画家らしくなった。」といわれる由だが、全くその通りである。
 親の遺産で食って行くばか息子よりも、画家として通用する人物となる方が有難いことはわかり切っている。八樹会の七先生方も私を「画家」と見られて、時には「同席してもよい。」と思われるので、この八樹会ができたのだから、私は運がよいのだと思っている。
 運といえば、私は自身で運のよい人物だと堅く信じている。手相など信じてよいかどうかわからぬが、私は虫がよいから、手相見の先生たちが私の手相を見て、一様にいったことを信じている。私の掌には太陽線というか変な線がかなり強く現れている。この線のある者は大体、長寿で、かつ一生金銭に不自由しない由である。しかし大抵の人にはこの線がない。私はこの線の上だけでいえば、一千人に一人ぐらいの人物であると手相見たちはいう。私は自分に都合のよいことは信ずる方針の人物であるから、この「太陽線の持つ幸運」を疑わずに信じている。
 それで「田舎にいても決して埋まらぬ」と堅く信じて依然と暮らしている。東京を物欲しそうにうろつくことは、三十何年間したことはない。その辺が八樹会の先生方のお目にとまって、私は今日からご庇護を受けることになったのだと思う。「世間をうろつかず、のっそりしていると幸運が来る」という一例を、世に示し得たのは有難いことではないか。
 私は若い頃は病弱で、かつ吃りで困っていたものだが、近頃では年の割合には健康もよく、そうしてあまり吃らなくなった。以前には、話の要所は紙にかいて人に示して話を運んでいたが、この二三年はこの「筆記」ということを殆どしなくなった。それでも人並とは行かぬが、とにかく私はウィットを持つ方だから、こんな風の話し方をしても、私のいうことは面白いらしく、訪問客が絶えない。私方ほど訪問客の多い画家の家は、東京辺でも少ない由である。
 健康の方では、私は明治二十一年生まれの八十歳であるが、年の割合には丈夫である。眼鏡を使わずに絵もかき本も読む。背筋も殆ど曲がっておらぬ由である。山道を歩く競争でもしたら、老画家の中では私が大抵勝つのではないかと思っている。そのくらいに足は丈夫である。一年に一回宛医者の精密検査を受けているが、今までのところでは「どこにも病気はない。」といってくれる。
 私は山口県の小郡駅の南方二里ぐらいの秋穂という町の出身だが、私はそこの「名誉町民」である。「名誉市民」ということはよく聞くが、名誉町民とはあまり聞かぬ名だが、私はとにかくその名誉町民である。人口一万内外の町で、こんな称号を私にくれたのである。私がその第一号であって、つづく第二号はまだ現れない。こんな田舎でかかる称号を受けることは、私としてはこの上なく嬉しい。何らの政治的の動きもなく、自然発生のように起こった話だから私は辞退をせずに受けた。いろいろな点から考えて、画家で私ほど郷里で親しまれる人物は少ないかと思っている。
 私は画家の中では有数のインテリであると信じている。私は洋画家のくせに西洋のことはあまり知らず、その辺では大きな口は利けないが、東洋学殊に漢籍を多く読んだことでは、私が画家の中では第一ではないかと思っている。その他私は雑学では画家の中では有数であるような気がしている(こんな風にほらを吹いても、誰も私を試験をするために来るひま人はない筈だから当分化の皮は剥げないであろう)。私の一族には偉い人物は一人もいないが、昔の帝大を出た奴は十数人もいる。これらの大部分は、何のために学問したかわからぬほどの怠け者が多い。とにかく昔の帝国大学卒だから、絵かきの私よりは学問がある訳だ。それらが私の前に出ると、私はほらを吹くからでもあろうが、私の方がえらく見える由である。
 そうして私は人を訪ねない方であるから、弟やいとこたちの家にも行くことはないのだが、今ではそれらの方から私の方へ押しかけて来るのである。来てから私の説教を聞いて引き下がるのだが、中では「あれの説教を聞いたような顔をしていると、あれの方から賽銭をくれるからよろしい。」などという横着者もいる。賽銭は参詣人が仏さまへ出すものだが、私方では説教をする私の方から出すのだから彼らは喜んでいる。
 しかしとにかく私はかかるインテリの一族の首長として君臨している。この辺は見え透いたばかや無学者にはできない芸だと思うがどうであろうか。
 私は絵の方では若い頃は極度の無器用さで、早くいえばひどい下手画家であったが、今はひと通り器用に、どんな絵でもどんな図柄でも扱い得るように思う。それは田舎に住んでいるから、田舎の人たちと親しむ必要上、頼まれたら何でもいやな顔をせずにかく習慣が多年の間についたためであろう。それから私はまだ健康上の衰えは生活の上でも絵の上でもあまり示していない由だから、生きている限り絵もまだ少々は進歩するであろうと思っている。「進歩」もおかしいが、とにかく急には絵の上では「老い」を示さずに行けるような気がする。
 中川先生がある人に向かって、「小林ほど老後に変化した人物はない。」といわれた由を伝えきいている。変わり方にもいろいろあるが、この場合は、私は「良い方へ変わって行った。」といわれたように解釈している。中川先生には近年度々お目にかかっているから、私をそのように観察してくださったかと思う。若い時の私は、ただの金持ちのばか息子以上の何者でもなく、絵も下手か、世才の方でも零に近く、ただおかしいだけの人物であったのだが、近頃はそうでもないようである。
 今では私の絵は世間に通用する。そうして私は、昔のようなばかのくせに思い上がった振る舞いは殆どしなくなった。そうして知恵のようなものも多少現れて来た。世間的にも利用価値の多い人物になりつつある。それで地方では相当のボスである由で、随分いろいろな用件を持ち込まれて休むひまもなく困る日が多いが、あまり迷惑そうな顔もせず用件を果たしている。
 こんな風で、私は昔の私に比較して「人物ができて来た」由である。この辺を諸先生その他に見て頂きたいものだとは思っている。八十歳にもなって始めて「人物ができて来た」といわれるのもおかしいが、昔のままでいるよりはましであろう。
 ここらで最後のほらを吹けば、私は梅原、中川、林の三先生の門下生の中でも、それぞれの門で「一の弟子」であると吹聴している。「一の弟子」とは第一位の弟子という意味である。これには不服の人もあろうが、年齢その他でこうもいえないこともないであろう。
 それから私は京都の美術工芸学校と絵画専門学校の日本画科の卒業生であるが、これらの学校ではそう多くの人材は出ていないようだから、私はここの卒業生約一万人ぐらいの中では、選良の何十人かの中へ入るのではないかと思っている。しかも日本画家としてでなく、洋画家として現れたのだからその辺で目立つ存在であろう。
 それから私は今でも絵は一向に上手ではないのだが、「色彩家としては日本有数である。」などほらを吹いている。私から見れば、日本の洋画家たちは、上位から十人ぐらいの先生方の色彩を除いては、たいして色の美しい人はなく、多くは生硬であるか無力であるかで、どうも感心できないのが多い。然るに私は「配色の美しさ」は生来身についていて、これだけが私の「唯一の取柄である。」と盲信し、自らを鼓舞して絵をかきつづけている(この辺はもし間違っていても大目に見てほしい)。
 以上随分ばかなことをかいたが、これはこの度、七先生のお引立てで八樹会展によって、田舎画家の私が世に出ることになったので、その嬉しさを正直に表明したものと解釈して笑って読んで頂きたいものである。
(昭和四十五年)
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