小林和作>エピソード
雑記(四)
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小林和作  どんなばかな経験でも、悪い経験でも、しないよりはした方がよいと思う。
 ただそれが後を曳いて習慣になったりしては身の破滅になる場合もあるが、それさえ防ぎ得れば、どんな経験でも豊富にあった方がよいだろう。
 そこで思うのは、貧家とか不整備な家に育った人は、本人の意思でなくても、境遇上いろいろの悪い経験をなすべく迫られたり、またはひどい恥をかくような事件に追っかけられたりすることが多いであろう。富家や整理された家に育った人は、境遇上そういう経験をすることがなかったり、親や雇人たちが周囲から目を配って、悪い結果になりそうなことは未然に除去してくれるのだから、よく行けば鷹揚な人柄ができるが、悪く行けば、所謂「お芋の煮えたのもご存知ない」ようなばか者ができたり、または思いやりのない冷たい人物ができたりするものである。
 永い一生を通じてみれば、そんなことは却って不幸の種になることが多いのだから、望み得るなら、どんな人でもなるべく若い頃にいやな経験をうんとなめて、苦痛を味わったり、笑われたりして、それに対抗し得る智恵や体力を養うべきであろう。
 どうせ人の一生は、どんな幸福な人でも平穏無事であるものではない。いつまでも親や財産やその他の保護者を頼ることはできない。どうせいつかは裸のままで冷たい世間に放り出されて、自分の地力で、総ての悪や災難を押しのけて歩くよりほかはないようになるのだから、人はなるべくいろいろ豊富な経験をして、必要上強靭な人格や体力や、或いは適当な老獪さを養うべきであろう。
 身分の高い家や富家の子弟は、その意味でよく考えれば不幸な育ち方をしたともいえる場合も多い。貧家の子も、教養とか礼儀とか、本当は第二義的であることを学ぶことが少なくて不幸である場合も多いが、しかし多くの動物が教えられなくても、自ら孤立して生きて行く術を知るのに近い境遇で育つのだから、その人の考えよう次第では、世の学校のような形式的で浅薄な組織の下で教育された人物よりは、もっと立派な教育を受けたような結果になり得るものであろう。しかし富家に育ってその不幸さを知る人も少なく、また貧家に育ってその幸福さを知る人も少ないようである。それで世の中は、多くの無明の中で明け暮れて行き、凡人または愚人がいつの世でも数の上では多いことになるであろう。

 私は普通の意味では、比較的に富家で幸福に育ったのだろうが、本業の絵の上では、元来の才能が至って乏しい上に、私の家が美術などに全然関係なく、その方の知人もなかったので、私の父なども画家としての私に絵の教育の上での便宜を計ってくれたことはなくひどく無関心のままで放置したのである。その上に父が死ぬまで、私が絵を学び始めて約十五年ぐらいの間、私の絵を父が見てくれたことは一度もなかったような気がする。ただやっと食いつないで行くだけの捨て金を私に与えて、京都で遊ばしていたのが本音であろう。或いは私が絵の方で絶望して辞めて帰って来るのをひそかに待っていたのかも知れない。
 その辺では私は、絵の上では貧家に育ったと同じような行き方をしたのである。しかし今になって見れば、それが却ってよかったのである。今の世の画家志望の人物たちに対する親や社会の関心や世話ぶりの親切さには感心するとともに、そんなに行き届いた世話は、その人を甘やかして、骨格を軟かくする結果になりはせぬかとの心配もしている。
 才能のある人は早く認められ世間の庇護を受ける。それが自然だが、それが度を過ぎると苦労を知らず世間知らずの画家ができ上がることもある。丁度富家に育った子供がややもすれば世間知らずになるのと同様の径路からであろう。
 画家が一人前になるのには、貧乏も有難い。落選は殊に有難いように私は思うのだが、今の画家志望者の中の一部には、その味を知らずに育つ人が多い。世の恐ろしいほどの美術熱がそうするのであろう。その上今の画家は、師匠の飼育を受けることを恥ずるとしか思えないほどに独創を尊重している。独創だけで絵がかけるなら、これほど有難いことはないが、そうは行かぬのである。その辺では世間の苦労を経験せぬ富家の子が却って不幸であるように、絵の上の真の苦労の足りぬままで世に出た画家もあまり幸福ではないような気がする。
 私などの若い頃は、絵かきなどは坊主と同じようで、乞食の一種と思われがちであった。世間の庇護がないから一様に貧乏であった。その上に、展覧会が少ないから作品を収容し切れず、落選者が多かった。私の若い頃の画家たちで、落選の味を知らぬ人は殆どなかったであろう。今はその反対に、落選しっぱなしという画家はどこにもいなくなった。仮に一方で落選すれば、他の会に出せばよいのである。あまり厳選すると、そこには出品者が少なくなって、会の運営ができぬようになるから、大甘に審査して、会場に陳列できる限りの多くの絵を陳列する。
 かかる世の中だから、誰でも絵をかけばすぐに画家らしくなれる。そうして世間もそう思ってくれる。そこで画家や画家志望者がむやみに多くなった。しかし真の画家は却って少なくなったのではあるまいか。総ての生物は、数が多くなれば粒が小さくなるのが原則である。その原則が画家の上にも来たのである。昔やっていた厳選とか落選とかは、実は画家を鍛え上げる強い鞭であった。これあってこそ真の画家気質が養成されるのである。
 しかし今はそれがなくなった。大きい意味では、各自思う方向へ思うように歩けることになった。私どもから見れば有難いような、またはそうでもないようなおかしな時代になった。しかし聡明な画家は、この風潮の中でのうのうしてはいないだろう。自己批判を厳しくし、邪悪な行き方は自らの判断で落選していって「人類の美術」として、永久的に価値のある方向を自ら求めて貰いたいものである。
 近頃は美術品を財産として買う方針の人が多くなったようだが、これも考えて見ればなかなかむずかしいような気がする。美術品は多くの場合に必需品ではないのだから、その値段はその時々の流行や気まぐれや、商人の操作によって支配されることが多い。その動きの裏の裏まで知って買う人は殆どなく、たいていは深くはわからずに買うように思う。
 美術品を財産として買うことは私ども専門家でも実はなかなかむずかしい。私自身は何をしても他に累を及ぼすことはないから勝手に買うが、私が若し他家の美術品購買顧問になって、なるべく後々まで有利であるような買方をせねばならぬとすれば「それは至難だから。」といって断るだろう。
 何が最もむずかしいかといえば、後になってどんなものが値上がりするか、或いは暴落するか、一向にわからぬからである。立派な美術品は値をちゃんと維持するように万能の神様でも計らって下さる制度でもあればよいが、実はそうでなく、所謂衆愚の好みが値が支配するようにできているのだから困る。何でも希望者が多い物は値が上がるのだから、値をきめるのに殊にわが日本の場合には衆愚の好みの動きによるのだから、美術品を長期の財産として買うには、美がわかると同時に、民衆の心を読む心理学者でもあらねばむずかしいであろう。
 私は画家だから、我々同類の絵が多く売れることを切望するのだが、さて世人がそれを買ってどうするのかということまで考えねばならぬとすれば、多くの場合に憂鬱になる。世の画家の絵で、将来値上がりするものは一割もなく、大部分は値下がりするものである。まして革命が起ころうと、時世がひどく変わろうと、元値を保ったり、或いはますます値上がりするものはごく少ないのである。大部分は値下がりするとすれば、それを恒久的な財産として買うのは、多くの場合愚かであるとしか考えられない。しかしそんな不安なものでも買って頂かねば世の画家族は生きて行けないから、私も神妙な顔をして絵を売るのだが、内心では多くの場合に冷や汗をかいているのである。
 恒久的な財産と思わずに、数年間の財産として買い、併せて趣味上の楽しみの対象として買うのなら、それはそれとして最も面白い買物であろう。美術品はそれを置く位置さえ適当ならなかったりするほどの強烈な楽しみにはならぬが、美術品に深く溺れて、身を亡ぼすほどに深入りする人もないようだから、先は適当に上品な楽しみとなるであろう。
 しかしその程度を超えて、多くの使命を美術品に托して買い込む人が多くなったようだが、売りつける人達は、その辺に罪悪も潜み得ることまで考えているのであろうか。
 絵が値下がりする一例としていえば、今日では明治大正時代の日本画幅の大部分の値は暴落している。殊に南画や四条派のものは大部分ただ同様になっている。また細くて長い仕立ての懸幅は、その仕立てそのものが既に今日では実用的ではないというので、よほどの名作でない限り顧みられなくなりつつある。明治大正の時代に、高い値がついていた所謂名作が今日までそのまま残っていたとしても、それらは倉に一杯あっても、今日流行する絵の一幅にも及ばぬ場合もあろう。
 それに類することは今後もしきりに起こるだろうが、作者が生きている間は、その作者に対する親愛の情もあり、または作者が工作をするから、そうひどい値下がりはないようだがその人の死後のことはわからぬ。
 私は京都の日本画家都路華香の遺作を愛好して、目にふれる限り買い込みつつある。これは人柄も立派で、そうして芸術院会員で、絵画専門学校の校長でもあった人だが、死後約三十年の今日では、私どもが嘆くほどに安い。力作でも、懸軸仕立てのものなら十万円以上するものはないであろう。しかし生前に名声のあった人の作だから表具は皆立派である。今日では表具代以下で取引きされている名作もありはせぬかと思う。
 それから同じ時代に西村五雲という人があって、これも生前はその作品に人気があったものだが、今ではこれも昔に比すればただ同様になっている。
 こんな例は頻々として起こり、将来もますます多いであろう。明治以後の日本画で生前より値上がりしているのは極めて稀で、僅かに菱田春草、速水御舟、村上華岳、富岡鉄斎ぐらいのものであろう。華岳などはますます高騰し、生前の何十倍になっている。
 西洋では美術品売買の制度が日本よりは確立しているようで、名作となると一定の値を保つか、またはますます高くなりつつあるようである。ゴッホなどは、死んだ時はその作品はただで、ゴッホの死んだ家の人は、ゴッホ家からお礼にその遺作を二枚ぐらい貰ったが、「こんな不吉なものはいらぬ。」といって、間もなく破ってしまった由である。もしその絵が今日残っておれば一枚でも一億円以上であろう。
 こんな話を日本人が聞いて、美術品は値上がりが大きいとか、恒久的な値段を保つものと思い込むようだが、それは作者次第である。私は現代の日本の画家の作品も、大部分は作者が死ねば値下がりするものと思っている。私自身の作品も勿論その中に含まるべきものだから、気の弱い私は昔から、自作を売り歩いたり、頼んで買って貰ったことは一度もない。しかし私方へ押しかけて来る熱心な希望者には「それならお譲りいたします。」という態度や形式で絵を見せているのだが、これはちと狡猾かな。
 しかし酒など飲んでも仕方がないし、美人は買っても手許に置けば年々口やかましくなり、遂にはしわくちゃ婆になり、ただ以下になるが、美術品はしっかりしたものを買って置けばただに近いようになることはあるが全くただになることはない。
 この世には恒久的な価値を保つものはないのだから、目先美しくて移動もしやすい美術品を買い込むのは、結局は賢いかもしれない。世には美しくてかつ恒久的な値打のあるものは殆ど無いのだから、それらの買物に多くを望んではいけないであろう。世人は宝石は大丈夫だと思い込むようだが、私はそうは思わない。こんな鑑定のむずかしいものはない。第一に買い方がむずかしいし、またそれを売る時に、奸商どもが申し合わせて一斉にたたけば、これに対抗のしようがあるまい。これは名品でも人が作ったものでないから、作者の鑑定を求めることはできぬから、何といわれても仕方がない。美術品ならその作者が生きている限り、その鑑定を乞うことはできるから、にせ物を買わぬ限りまあまあある程度の値は保つであろう。

 私は年の割合には、丈夫な方で、周囲を見廻せば、私と同年輩で生きている人は殆どない。大部分は死ぬるか、またはがたが来たりしている。先日郷里に帰って、多くの知人に会った。昔小学校で私と同級生であった角中伝左門というのに約五十年ぶりに会った。ところが、この角中君はまだ六十歳ぐらいしか見えず、その上、昔は別にインテリ風の人物とは見えなかったが、今はいかにも知識人のような立派な風采に見える。こんなに子供の時とちがって見える人は少ないので、その後、どうもあれが本当の角中君だったかどうか疑問に思っているのだが、郷里に長く住んでいる私の弟が案内したのだから、間違えるわけはあるまい。
 これは驚くべき例だが、この角中君も今は子息らは他へ出ていて、自分は郷里の家に独り暮らしていると話していたが、こうなると、同年輩として現役のように働いており、周囲も比較的賑やかであるのは私一人かも知れない。それが先日帰郷した時には、現存している三人の弟どもを方々から呼び集めて、お供のように随行させて、途中やその他で、私が「人生の生き方」とか何とかについて説教をした。この弟どもは三人とも昔の帝大出なのだが、皆一向に振わぬから、私には頭は上がらぬ。それが絵かきの私の説教を素直に聞いているのだから甚だおかしい光景で、私の父母がまだ生きていて、これを見たら大いに笑うであろう。私の父は、帝大に行った弟どもにはそれぞれの期待を持っていただろうが、私については全然期待は持っていなかったと思う。
 その私が弟どもを引率して歩き、その上説教もするのだから変われば変わるものである。弟どもも耳は痛いであろうが、蔭では「兄貴は説教料を呉れるから辛抱して聞いているのだ。」などと、いっている由である。普通の説教は、聞く人々の方から賽銭を上げるのが例だが、私の説教は私の方で後で「聞き料」を出すのだからおかしいが、この私でも、郷里では割合に買被られて、人々から尊敬の目で見られているので、よい気分だが、それだけに郷里の人々に対して責任が重いので、若しこの上長く生き得れば何か後に残るものを作らねばならぬと思っている。
(昭和四十一年)
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