小林和作>エピソード
親と子
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小林和作  柔道の本山講道館の創始者嘉納冶五郎の長男が画家であって、肺病で早く死んだことは殆どの人が知らぬであろう。
 それは竹添履信という名であった。長男でありながら姓が違うのは、嘉納先生の夫人が日清戦争の頃の朝鮮公使であり、後には儒者としても有名であった竹添進一郎の娘であったので、その竹添家を継いだためである。
 この竹添君は体格があまりよくない方であり、かつ一種の自由思想家で、柔道や学問の方を継ぐには不適当であった。それで嘉納先生も画家になるのを許したのであろう。梅原龍三郎氏の家へよく出入りし、その関係で油絵をかき、春陽会や国画会へ出品していた。主として風景画をかき、色彩に雅趣があり、稚拙な所がありながら一度見たら忘れ難いような絵であった。そうして若い時から老荘思想のようなものを持っていて、行動にあくせくした所がなく、いつも悠然と世間を超脱したような風姿で暮らしていた。従って相当の怠け者であったが、その辺で一致する点があったのか、私とは至極懇意でよく往来した。
 私がパリにいた頃に竹添君も来ていた。どう発奮したものかルーブル美術館へ毎日行ってコローの絵その他を熱心に模写していた。また、安下宿などに泊まらずに、エッフェル塔の附近の上流フランス人の家庭に客となっていた。私がモデル女を連れてその家へ行った時に、その女が「この人は百万長者か」と聞いたくらいによい室にいた。
 パリから帰って小田原に住んでいたが、骨董趣味が深く、今なら国宝ともなるべき董北宛の山水の大幅や八木山人の群鹿の幅などを持っていた。そうして支那画についての造詣が深く、中々面白いものがあった。しかし昭和九年頃に四十歳に足らぬ齢で死んだ。こんな風格の人はあまりないので惜しい気がする。
 嘉納先生の長男に病弱者がいたとは親と子とは似ない点もあるものである。今の講道館長の嘉納履正氏は竹添君の弟であるが、兄貴の体格から推して多分柔道の実力者ではないであろう。

 私は岡本太郎君を子供の時から知っている。私の家の近所に三井関係のテニスコートがあり、それを私が管理していたので、そこでテニスをさしてくれと、岡本かの子さんが十六、七歳の太郎君を連れてやって来た。父親の一平氏は中々美男子であったが、太郎君はかの子さんに似たのか、その頃は田舎の子供のような不景気な顔をしていたので、これが一平さんの子かと私どもは驚いた記憶がある。その後、太郎君は上野の美術学校にいたが、その学校は辞めて両親と共に渡欧した。東京を発つ時に、私も息子をつれて見送りに行ったが、大変な見送り人で、私どもは太郎君に近づくこともできなかったほどであった。
 その後太郎君に一度も会ったことはないが、太郎君はパリに十何年もいてから帰朝し、人を食った理論で、人を食った絵をかき、画壇の最高の人気者となった。その絵がよいかどうかは私には殆どわからぬが、両親の素質を承けて、芸術家としての才能は豊かにもっていることは間違いない。殊にその文章は非常にうまいもので、おかしな理論でも、それを素人にまで呑み込ます特殊な才筆には私は感心している。そうして近頃の写真で見ると、子供の時の不景気さから脱却して中々の押しの利く立派な顔になっている。
 そうして太郎君は一人息子であったが、一平氏が老後、後妻に何人かの子を産まして死んだので、その幼弟妹を太郎君が引き取って世話している由だから、その点で大の孝行息子でもあるわけである。

 須田国太郎君のただ一人の子息の寛君は鉄道員である。この寛君は子供の時から汽車に関することが何よりも好きで、須田君に連れられて私方へも度々来たものだが、暇があれば尾道駅その他へ行って汽車を見ている。従って汽車のことはひどくくわしい。しかし須田君は困って「これは小学生のように汽車が好きで末はどうなるか心配です」といっていた。
 しかしその後、京大を出て鉄道省の本省の方の採用試験に通過して今は仙台の鉄道局にいる。何でもこの試験は何百人に一人というほどきびしいもので、それに通ったのだから驚くべきものだが、好きこそ物の上手なれで、今は寛君は魚が水の中にいるように機嫌よく鉄道の仕事にいそしんでいるであろう。
 寛君が十七八歳の頃であったか。私方の五右衛門風呂に父子が一緒に入ったらしく、後で須田君が「やけどの薬はないか」と聞くから、どうしたのかと聞いてみると、せまい風呂に親子で入ったから身動きができず、釜があついと思いつつ子をかばうためにじっとしていて、その為に横腹の辺にかなり大きなやけどをしたのである。私は驚いて須田君を医者に連れて行ったが、その後で寛君は平気な顔をして「おやじが間抜けだからやけどをしたのです」と人にいっているのでおかしかった。同じくただ一人の息子を持っていて、今はそれを失った私は、こんなことをいって親をひやかす寛君の様子を見て、須田君をひどく羨ましく思ったものである。
(昭和三十年)
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