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八月六日、七日のこと
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小林和作  広島の原爆については私にも思い出がある。
 昭和二十年七月の末、郷里の山口県の秋穂町にいた私の母が死んだ。それで私は郷里に帰って葬式をすまし、後片付けが終わって、尾道に帰ることにしたのが八月六日であった。
 夏だから、朝の四時頃に大道駅を通る汽車に乗ることを定めていたが、その前夜に急に用事ができてそれに乗れなくて次の八時頃のに乗った。
 その汽車が岩国に近くなって度々徐行したが、岩国駅に着くと、「この汽車はここより先は行かぬから降りて下さい。」と駅員が呼び歩くので、何のことかわからぬながら、皆ぞろぞろと降りた。
 「どうしたのか」と駅で聞いても「広島に何かあったらしい。汽車はいつ出るかわからぬ」という。原爆のためとは知る由もなく、その頃の汽車はひどく不規則だったから不思議にも思わず、駅前の宿屋に行って「汽車が出るまで休ましてくれ」と頼んだ。しかし素早い連中が、もうどの室も占領していて空室がないという。私も素早く立ち廻って、どうにか狭い一室に入った。
 汽車が出るのに乗り遅れては困ると思って度々駅へ行ってみた。駅は宿に泊まれぬ人達で一杯である。夜になっても汽車は出そうにない。遂に翌朝になったが汽車は出ず、駅の方もはっきりしたことは何もいわぬ。やっと午後一時前になって「己斐までは行くが、それから先へは行かぬ。それでもよい人はこの汽車へ乗れ」といったので、私はすぐ宿に帰って荷物を取って、その汽車へ駆け込んだ。
 宮島辺まで来ると駅にもひどい負傷者がおり、汽車の中にも血を流した異様な人がぼつぼつ乗って来た。医者に行った帰りらしい。これは大変だと思っているうちに己斐駅に着いた。「これからは向洋駅まで徒歩連絡の他はない」というので、一列車の人が皆降りた。その頃の旅行者の例として、食糧品その他の荷物を多く持っている。それが蟻のごとく行列をして午後の烈日の下を歩いた。道端に見る家々は皆瓦と壁土をふり落とされて虫籠のようになっている。横川駅は見る影もなく、屋根の鉄骨などが露出して、それがもつれたように乱れていた。
 この辺から先は町が完全に焼けて何も残らず、青い木一本すらない。ただ大きな煉瓦でできた工場のようなものの内部がまだ炎を噴いていた。遠い山の方や、その他では煙がまだ上がっている。思いなしか道のコンクリートさえまだ熱いような気がする。死人はもうあまり見えなかったが、皮がむけたり、赤チンを塗られたりして鬼のごとく見える負傷者が到る所に横たわっていた。
 広島駅に近づいた頃には、長い行列は大分遅れて、私は殆ど先頭を歩いていた。川の中には死骸が流れるのが見える。橋の上にも負傷者がうめている。川上の汽車の鉄橋の上には、原爆投下の時間に丁度通りかかったらしい汽車が傾いたままとまっている。
 何の故かわからぬが、ひどい爆弾に遭ったもので、世の末のごとく思われた。ふと気がつくと私は郷里の見送人から貰った卵を一箱大切そうにかかえていた。重いものを持つにおよばぬと気がついて、路傍の人に一つ宛分けてやった。傷だらけの顔で礼をいうのもある。それがまた凄い。
 それから少し行って広島駅の辺だったか、手押しポンプで水を汲んで飲む人がいる。私も頼んで、そこの木椀で水を数杯飲んだ。広島駅も無残な体である。その辺のレールの上に散らばっている汽車の箱の中にも人が一杯いて他人が這入るのを防いで、ごてごていっている。
 広島駅から向洋駅まで行くうちに、同行者はだんだん落伍して、わずかに二、三人となった。私は暑いので井戸のあるところに立ち寄って度々水を飲んだ。疲れ切った頃にやっと向洋駅に着いた。そこに上り汽車が待っていたが、満員で皆わいわいと騒いでいる。私はやっと、汽車にもぐり込むことができた。時刻は六時ごろであったか。そうして夜の九時前に尾道駅について家に帰った。
 後で静かに考えて見ると、六日の未明頃の汽車に乗っていたら、丁度原爆の落ちた時刻に広島辺を走っている筈で、私は死ぬるかまたは進退に窮する日に遭ったであろう。それを一寸用事のために次の汽車にしたのは、天佑か或いは死んだ母の霊が私をそう導いたのかと、いまさらのごとく感謝した。
 しかし広島で原爆の影響のある水を飲んだためか、次の日からひどい下痢がつづいて、一ヵ月ぐらいとまらなかった。血便まで出たが赤痢ではないという。福山が空襲された夜には私は疲労がはなはだしいので、その後で敵機が何十も大旋回のために私の家の上のあたりを通ったときにも、防空壕に入らずに庭で寝て見ていた。広島の惨状を見たので少々用心しても同じことだと思ったからである。
 それから半年ぐらい後に汽車で岩国を通って見たら、駅も駅前も私の泊まった宿も、すっかり無くなっていた。運悪く七日から終戦までの僅かの間にやられたらしい。
(昭和二十八年)
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