小林和作>エピソード
尾道での生活が始まる
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小林和作 東京脱出を考えたとき、和作の頭に先ず浮かんだのは郷里の秋穂だったに違いない。
傷心を抱いて帰るには郷里こそうってつけの場所である。
が、それは和作の自尊心が許さなかった。秋穂の大地主小林家の嫡男は、今や小林家を潰した男である。郷里へ帰るには「どうも気恥ずかしい」というのは和作の実感であったろう。
和作はそれまでにも何度か郷里への往来の途次に尾道へ立ち寄っている。
京都美工校時代の一年後輩に当たる森谷南人子が住んでいたし、空気の明るい画題に富んだ風光も気に入っていたのだろう。
しかしそれだけの理由で尾道を寓居の地として選んだのだろうか。
和作は傷ついていた。
破産(と言っても、法律的なものにまでは至っていない)によって傷ついていたわけではない。
破産から生じた人間関係の崩壊に傷つけられていた。
その傷を癒してくれる何かが尾道に感じられたのではないか。(評伝144参考)
尾道に着いてから南人子が色んな人を和作に紹介している。
アマチュア画家・医者の小野鐵之助。笠井隆吉。和作は彼らに絵の指導をすることになる。
南人子が尾道で絵の会を開くために生徒を募集していたので、知らない土地にきた和作に知人を増やすためにも紹介したのではないか。南人子の親切心が窺われる。
→本ホームページ「慙愧心」参照

絵の指導をしながら、毎日スケッチブックを持って、尾道三山(千光寺山・西国寺山・浄土寺山)や向島を歩いている。
01−290「広島県松永風景」
01−290「広島県松永風景」
01−504「秋郊」
01−504「秋郊」
水彩画の「広島県松永風景(01−290)」昭和9年すぐに描いている。それが油絵になって「秋郊(01−504)」第四回独立展に出品。(須田は「尾道内海」を出展。)

「秋郊」は小野鐵之助が持っていたものを後に尾道私立美術館に寄贈したものである。

水彩画「尾道向島(01−513)」から「尾道風景」(第5回独立展に出品)になる。
01−513「尾道向島」
01−513「尾道向島」
「尾道風景」
「尾道風景」(尾道市立美術館所蔵) 昭和10年

「尾道向島」のパーツアップ
「尾道向島」のパーツアップ
「尾道向島」は当時の和作の零落のさみしさを表現した作品でなかろうか。尾道水道に浮かんでいる船がすべて東京を向いている(パーツアップ参照)。結局は東京に帰りたくてたまらないという現れではないだろうか。危険な推測かもしれないがそう思えてならない。


水彩画「尾道向島(01−446)」から「梅(01−449)」(第5回独立展に出品)。

01−446「尾道向島」 01−449「梅」
01−446「尾道向島」 01−449「梅」

お金がないから遠くに写生旅行もできず、尾道の土地になじむため、自分の足で歩いて頭に地図を描こうと、尾道周辺を毎日歩いていたのではないか。
頭の中に自分の居る場所の地図が出来たとき、それは「旅」から「生活」になる。
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