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慙愧心
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森谷南人子
03−393
03−393
大正6年スケッチ帖(7)がある。そこに書かれた文字慙愧心(ざんきしん)とは

笠岡時代。特筆して優しい淡い水彩画の農村地帯を描いた絵がある。
ほかにかなりの数で農民の農作業風景のスケッチがある。細部にわたっての描写力を意識していたのか人物デッサンは筋肉の表現が豊かである。

このノートの一番の特徴は表紙に大正六年五月 森谷利喜雄 
慙愧心(ざんきしん)の表記あり。
この言葉にはどのような意味があったのだろうか。
南人子の深い心理的な意味なのか。

03−412 03−424
03−412 03−424


スケッチ帖(8)は表紙に大正六年五月中旬とあり。

表紙の裏に「森谷南人子尾道風景画頒布会」
スケッチの中身は笠岡の風景のみであるが、頒布会の募集の文章があり切実なタッチでその文章は下書きされている。
このスケッチ帖の内容は笠岡の風景だけで、尾道と明記された絵は一点もない。
にも関わらず尾道の画会の募集文があるということは、
この文だけは尾道に移ってから昔のノートの余ってる部分に書いたのではないかと想像できる。(012)

03−427「スケッチ帖(8)−1」
03−427
「スケッチ帖(8)−1」

募集文
この度、私は左記の規定によって画会を起こそうと思います。
この地方におなじみの少ない自分は、この画会によって一人でも多く、自分の絵に理解を持って頂く知己を得たく思い、心願の現れなのです。
入会くだされる方が多ければ、たいへん愉快に意気込んで着手出来ます。
特に尾道風景と限ったことは前述の理由ですので、親しみつつある風景を題材に選び、■■は■■と一層興趣を持っていただけるだろうと(判読不能)あります。

03−428 「大正十三年■ スケッチ帖(8)−2」
03−428
「大正十三年■ スケッチ帖(8)−2」


 主題は風景(尾道及びその附近)
○寸法  曲尺(かねざし)一尺五寸 二尺
 然(しこう)して寸法にはコーデーしないで額面、掛軸用なども描きます。
 会員 二十名限
○ 会費 一月 十五円
会費払込方法は申込の時、半額頂きます。
絵には御渡しするとき、残額(判読不能)の中途退会の方へ(は既納会費返しません)
△ 全部完成した場合は一■■として絵の出(判読不能)展覧して■(判読不能)は■やします。完成■は(判読不能)

      
笠岡の農村の色彩も“京都ノート”の色彩に似て、非常に淡く優しい。
その他、幼児をおんぶした女性のスケッチが印象的なのです。
03−435 03−458
03−435 03−458


その他大正6年作とされる絵に「朝の海(03−536)」「曇り日(03−537)」あるが、南人子のサインと落款あり。
03−536「朝の海」 03−537「曇り日」
03−536「朝の海」 03−537「曇り日」

山影がスケッチ帖にある風景と非常に似ているために、
笠岡の海を題材にしたものと推測しています。
少し高台に登って手前に畑、民家、絵の中ごろに海、遠景に島影という構図が
尾道時代に入ってから描く構図と似ている。南人子の好んだ風景ではなかろうか。
そこには何かゆったりとしたときの傍観者的な安堵感さえ感ずる。
和作が岩場の多い起伏にとんだ激しい海を好んだのに比べ、
南人子は瀬戸内の波穏やかな海を好んでいるように思う。
南人子は創作版画運動にも力を注いだ。

それまで日本の版画は、完全なる分業の世界だった。
『黙鐘』を創刊し、版画の世界に入った南人子達はその分業をすべて一人でしている。
そして自画、自彫、自匠の制作で創作版画運動に入っていった。

木版画では、大正末年から昭和初年に、創作版画の同人誌「HANGA」などに風景画をたびたび発表、また新樹社展にも出品しています。その後も地元の同人誌の表紙や商業用包装紙などに木版画を提供するなど、制作を続けました。
(2003年竹喬美術館における「森谷南人子 木版画と素描展」チラシより引用)

大正初期の版画には「瀬戸の海」がある。
年代が特定できないが、もしかしたらこの海は少年時代過ごした神戸の海、
あるいは笠岡の海の、どちらかであろう。いずれにしても懐古的な雰囲気が漂う作品です。


「小屋のある風景II」 「瀬戸の海」
「小屋のある風景II」(ふくやま美術館所蔵) 「瀬戸の海」(ふくやま美術館所蔵)
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