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森谷南人子>エピソード | ||||
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南人子の絵の基本が固まり始めた | ||||
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大正7年 1月 土田麦僊、村上華岳、榊原紫峰、小野竹喬、野長瀬晩花ら、 国画創作協会を設立する。11月第一回国展に「快晴」が選外となり陳列される。 笠岡農村地方だと思われる。
モチーフは尾道時代の絵にも通じるが、非常に外国の作家の影響が大きく、セザンヌ、ゴッホの独特のタッチが木の書き方などに反映されているが、まだ人の表現にはまだあの独特な牧歌的表現は見られない。そのあたりを興味深く汲み取れるところがある。 笠岡時代の絵が後半の作風と大きく違う点を彼南人子自身が語る面白い一説があります。 「独居雑筆・青木呆然著」にあり 南人子は笠岡時代の絵を見ることは苦痛だと言っている。 それは写実一点張りで色彩の華やかなのに比して、 心の底には比較的静かな影しか投げないものであった。
スケッチ帖(6)がある。以前のスケッチ帖と比べて、鉛筆・薄墨であったのに対し、 スケッチ帖(6)は細いペンで緻密に書かれたタッチに変化している。 やはり題材は笠岡附近の農村風景と思われる。 それにもペンで農民の作業風景のデッサンが多い。スケッチ帖(6)−13(03−388)画面下中央より右手に伸びる道に物を担いで坂道をあがる農婦の後ろ姿が見られる。 後の絵の題材にも同じようなモチーフは繰り返し見受けられる。
南人子は農村の農婦をよく描いているが、この頃から芽生えたのではないだろうか。それとも地方という土地柄のためそのテーマしか無かったのかも知れないが、いずれにしてもその絵に吹き込まれた絵の題材は、人は南人子の心をよく表した絵になっている。 特にあの畑の中に憩うている一人の人物と、左手の枯葉の野道に背を向けて、寒そうに小腰をかがめて消えていく、 淋しそうな姿は、ひどく私の心をとらえました。 あの男の後をだまって追いかけていきたいようだと、 私は繰り返して申しました。 あなた(南人子)はあの人物が確かにこの絵全体を活かしていると思うとおっしゃいました。(「独居雑筆」青木呆然より引用)
スケッチ帖(6)の裏表紙に「笠岡町 森谷利喜雄」と本名あり、練習したような字が三つある。その書体には言い聞かせるような願いがあるのだろうか、南人子としての生き方と、利喜雄としての自分・・・
大正9年 尾道市長江3丁目山城戸に転居し以後定住する。 スケッチ帖(4)には表紙に朱墨で「寫生帳・大正九年十一月十六日より」とあり、 自分の名前森谷南人子、南人子と何回も書いてある。 尾道に来てから初めてと思われる、写生帖に自ら「森谷南人子」と初めて使っている。 朱墨で何回も南人子と書いたのは森谷利喜雄が南人子として生きていく決意の現われであろうか。 |
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