小林和作>エピソード
富裕な地主の長男、小林和作
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小林和作 明治21年 8月14日、父・和市、母・ヨネとの間の13人兄弟の次男として、山口県吉敷郡秋穂村東本郷第341番屋敷(現在の吉敷郡秋穂町東1901番地)に生まれる。代々、田畑塩浜などを持つ富裕な地主で、和作より6代前から、毛利藩主から苗字帯刀を許された家柄であった。和作は生来、どもりであった。
のちに郷里の風景を描いた絵がある。「秋穂(01−431)」(「荒海」の下絵) 「秋穂(01−245)
01−431「秋穂」(「荒海」の下絵) 01−245「秋穂」
01−431「秋穂」(「荒海」の下絵) 01−245「秋穂」

小林和作 画像
(小林和作と美の交遊展図録より転載)
明治26年 4月秋穂村立大海尋常小学校に入学。
この前後、父母に連れられてどもりを治すために上京するが、効果はなかった。
学校の成績は卒業まで主席だった。
が、勉強より昼寝、魚釣り、「三国志」を始めとする読書が好きなようであった。
明治30年 3月同小学校を卒業、4月秋穂村立本郷尋常高等小学校高等科に入学。ここでも主席を通した。
明治33年 病気のため同校を一年間休学。この頃から読書を覚え、三国志の直訳本(評伝31)などを読みあさった。
明治35年 3月同校卒業。絵の道を志すが、後継ぎとして商業学校進学をすすめる父と衝突し、一年間浪人する。
明治36年 やっと画家志望を認めた父に伴われて上京し、父の知人の友人である山口県出身の日本画家・田中頼璋の門に入るが、入門翌日風邪をひいて医師の忠告で直ちに帰郷した。
明治37年 4月京都市立美術工芸学校絵画科に入学。
同級にのちの美術評論家・田中喜作のほか、川路柳虹、高畠華宵がおり、一級上には村上華岳、榊原紫峰がいた。絵画科の教授陣は竹内栖鳳、山元春挙、菊池芳文らであった。米屋の二階に下宿し、郷里から月十円の仕送りを受けた。一年後、下級生として森谷南人子、人見少華が入学してきた。
明治39年 父にすすめられて一ヶ月間休学し、どもり矯正のため上京。

明治の教育者井沢修二が創設した楽石社に入寮して矯正を受けるが、あまり効果もなく帰洛した。
あまり効果がなく一ヶ月が終わろうとしていたときに、井沢が和作に言った。
「きみは絵描き志望の由だが、絵にはドモリであっても差し支えないはずだ。ドモリを直すのは消極的な方法だから、ドモリであることを恥ずかしがらぬ度胸を養うことがなお大切だよ。」
その言葉が、身体的ハンディーを精神的な鍛錬で克服しようとする和作の大きな支えとなった。

明治41年 3月、同校絵画科を卒業。
学科の成績は主席で、実技は下位の成績だった。

卒業と同時に、前同校助教授の川北霞峰の画熟に入り、
号を「霞村」と称した。
明治42年 4月京都市立絵画専門学校(予科2年、本科3年)日本画科に入学。
後列中央が和作
(小林和作と美の交遊展図録より転載)


実技の上位合格者は二年に編入されたが、和作は一年だった。
同年4月に本科には森谷南人子が入学する。
→本ホームページ「京都で学ぶ絵の基本」参照
やがて学校がつまらなくなり、竹内栖鳳の授業以外は出席せず、
出欠自由な別科に転科する。
別科では一級上に小野竹喬、土田麦僊がいた。
転科の甲斐なく出席日数不足で落第、原級に留まる。
4月上京し、第三回文展をみる。
同展出品の菱田春草「落葉」にいたく感激し、以後春草に心酔する。
明治43年 4月京都・岡崎勧業館で開催の第15回新古美術品展に出品した「鳩」が高島屋役員の飯田藤二郎に買い取られ、三十円の金をはじめて手にする。

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