小林和作>エピソード
小林先生の写生旅行
高橋玄洋
前へ
小林和作  小林先生の随筆の一節にこういうのがある。
 「私はよく荒海の海岸の岩の上で海を写生するが、波は大体同じような時間の間隔で、同じような高さで寄せてくるものだが、一時間に一度位、何の原因もないようなのに非常な高波が寄せてきてずぶ濡れになることがある。しかしその後は又もとの平常な波に返る。人世にもかくの如き高波がある」
 これは乞われて尾道の高等学校の校友会誌に、人生観として書かれたものである。相手が高校生だけに力を抜かず、かえって本音を吐いているような処があって好きな随筆の一つだが、引用の部分を読む度びに、巌頭に坐って荒波を凝視している先生の姿が浮かんできて仕方がない。
 先生の油彩は殆ど画室で仕上げられた。構図を大事にされたので、かなりスケッチして帰ってもなかなかタブロに仕上がるものは少なかったようだ。好きな風景を、絵になる風景をと探して歩き、これだと思ってスケッチしたものが、アトリエに帰り、時間をかけて検討しているうちにどんどん脱落していく。惜しげもなく落としていく。だから尚のこと、あちこち探して歩かなければならないことになった。
 それは構図に厳しかったからであるが、同時にウソを描きたくなかったからでもあろう。先生の絵には作られた構図は全くない。自然そのものである。どんなに部分的にしろ自然に大して手を加えることは、先生にとっては既にウソなのである。仮りに絵の中にしろ、自然は動かせないもの、変えてはならないものであった。ウソを描くぐらいなら初めから描かない方がいい。そうした先生の底には、自然への果てしない畏敬があった。自然は造物主が生んだ絶対なのである。
 そんな考え方から、絵画の緊密な構成と自然との接点でしか仕事が出来ないという苦しい方法を選ばなければならなかった。果てしない自然の中から、厳密な意味で絵になる構図を探し出す作業である。
 これが先生のスケッチ旅行であった。
 先生は、特別なことのない限り、年に二度、春と秋かならずこのための旅行に出掛けている。
 三十七年の秋の旅を例にとると、尾道を出発して、信州乗鞍岳、安房峠、平湯、茅野、駒ケ岳、八ヶ岳清里、小諸、三国峠、湯沢、大沢峠、只見川上流、津川、会津若松、中山峠、湯野上、糸魚川、笹倉温泉、焼岳、大町、黒部ダム、鹿島槍ヶ岳、御母衣ダム、岐阜、そして京都に出て美術館を観て帰って来ている。
 七十四歳の独り旅である。一ヶ月を越す深山路の旅である。その上先生にはどもるというハンデもあった。
 現場でのスケッチは殆どが鉛筆かペンに水彩絵具で彩色したもので実に克明緻密である。こころ覚えとか構図を描きとめておくといったものは一切ない。あくまで畏敬する自然に対面し、それを写しとらせて貰うといった真摯な態度で終始している。素人の私などにはスケッチそのものが完成された作品にみえてとても素描などとは言っていられない気がしてくるものが多い。
 先生のスケッチを観ていると、先生が一点一画をおろそかにすまいと首を縦に振って画板と風景との間を往復している姿が目に浮かんでくる。
 先生は「鉛筆の写生をすれば自然の骨格が掴める」「絵を見て絵の勉強をせずものを見て勉強せよ」「汽車に乗っても本など読まずに外の自然を見よ」「風景は風光明媚なぞとも言うが風と光を大切にせよ」と弟子たちによくおっしゃった。
 そう言えばこんなことがあった。
 映画館からの帰りだったと思う。先生と私は雨を避けて尾道の裏長屋の店先でラムネを飲んでいた。
 「山奥や海岸で、突然雨にあったらどうする」
いつもの例のトンチのような話だと思って、
 「さあ、木の下へでも駆け込みますか」
 と適当に答えると、
 「木なぞない」
 と吐き捨てる言い方である。カッパを着ると言ったら、カッパはない、と言われるに決まっているので暫く黙って様子を伺っていると、
 「雨を観るんだよ」
 とこれも吐き出すような言い方であった。怒気さえ感じられる言い方だった。私が二十歳、先生が六十歳の時である。
 「私は風景画家であるから、旅の山の中など歩いているうちに急病でも起こして死に、そこが深山で、死体が人目につかず『彼はついに不明になったままである』といわれたら、それは理想の死に方であろう」
 と書いている先生は、昭和五十年十一月四日、中国山中の三次郊外で写生中奇禍にあって亡くなられた。
 晩年の文章に「日暮れて道遠し、嘆いても嘆いても足りぬ」というのがある。
 夕暮れの峠を行く先生の背が思われてならない。
(放送作家)
前へ