小林和作>エピソード
小林和作先生と水彩画
田近憲三
次へ
小林和作  尾道から、海峡を一つへだてて向かいあう向島は、小林和作氏がことに愛された土地であった。
 昭和九年のこと、巨富の資産がある事から崩れ去って、いよいよ画家として生活することが決まったとき、先生が永住の地と決められたのは、それは画壇に無縁な尾道市であった。
 作家は、その前年に独立展の会員に推されている。今のように猫も杓子も会員になる時代ではない。当時の会員は、団体の少数幹部をあらわしていた。画家として若しも立つ気なら、帝都こそは画家の活躍の舞台である。しかも独立展は、洋画の運動の先駆けとなって、話題を集めて、昇天の勢いにある時であった。
 そういうときに隠棲のように尾道に入ることは、画壇放棄を意味していた。しかしそれにもかかわらず、故郷でもない尾道に引き込まれたのは、それはわが国に、色彩として尾道ほど、殊に春に、その色彩の純度から、朗然と呼びかける場所がないからであった。何処をみても灰色の多いわが国に、どういう訳かそのあたりだけは、南仏のような色彩であった。
 作家は風景画家であったが、それ以上に天稟の色彩画家であった。そのために、いよいよ画家の決心がきまったときに、その人が選んだ道は、帝京で華々しい活躍をすることではなく、四時に色彩の歓びを意識して、真の画家として立ち、かつ進むことであった。作家は、自分に色彩を与える土地を選んだわけであった。
 向島を描いて、作家はその油彩では、春おしむを慕情を詠じて、「行く春」の絶品をしばしば残している。
 この『向島』は水彩の一点だが、春は暖風をおくって、陽射しは恵みをのせている。梨の立木はまばらに展開をして、情をさそって花が白い。これは制作としての作品ではなく、いつかは制作をするための、準備のための水彩だが、白花は光るかとみれば薄らいで、低い斜面は緑をのせ、その向こうは丘となり、丘の頂きはなめらかに起伏をして、春の憩いの閑けさに、これもそのままで詩のようである。
 それは比較的早期の水彩だが、画家は自分を押し出して、自分の力や才覚をこれ見よと描くわけではない。心を空洞にして、清くして、相対すときは、滲み入るようにして美がひびく。そしてその時しぜんに描く。しかもその詠嘆はひとりでに画面に伝わって、作家の水彩の作品は、油彩の制作とはまた別個な一つの至境に入るのであった。
 わが国の短い洋画史の中で、これほど奥の深い芳醇に入る水彩が他にあるだろうか。
 作家の水彩は、風景をどのように描いて見せたかというものではなくて、それは自然の美しさを、たずね、ただすために描かれたものであった。
 しかし、詠嘆だけが作家の没頭ではなかった。作家は中年にして、他人からみると遙に遅れて画家として立たれたわけであった。しかし立った以上は、真の画家として自分は立つ。また真の画家として立つ限りには、現代の制作がもつ把握の鋭さや、その解明の端的も併せて強化してゆくと、作家は、そういうこともある時点では考究をされたに相違ない。
 同じ向島でも『尾道向島』の水彩は、作家にしては例外ともいう勁抜な緊張におかれている。
 前方には埃っぽい道がよぎっている。一文字に光っている。先の『向島』では、実際には、是というほどの色彩が無かったにもかかわらず、緑の中に点在するオークルや、花の白さがことごとく活きて、作家の色彩感覚から、それは春を嘆賞したばかりか、実は多彩な画面でもあるような華麗までもあらわした。
 それからみるとこの画面は反対に、丘の展開は確然となり、鳥の子の紙の地肌が淡色をそえるとはいえ、総体は碧りにつつまれて、その碧りも抵抗のあるビリジャンの堅さに一貫をした。堅い丘の頂きに春の残花を点々といろどるが、作家は前作の抒情をことごとく棄てて、田の展開も精悍に、それはその日の光にもよるものか、自然の一つの緊張を要約をしたように表した。そしてそれに軽やかに雲を配置した。
 一体に抒情的に描く画家は、打ってせまる厳しさは、身震いをして忌みきらうが、自然の中に、甘さではなく、豊美の蔭にもっとも高い厳粛があることを、誰よりも知る人はこの作家であった。
 骨格をいちいち決めつけて、この水彩は、生命ある勁さでせまっている。

 自分は幸福の中にいるーーそしてその豊麗の絵画が育ってゆく。
 しかし山中に入り岩礁に立って、作家が描いたのは、油彩ではなくて水彩であった。
 なぜ水彩で描くのか、それは次の理由からであった。
 油彩は、制作として描く絵画であった。仮りに山中で、イーゼルを立てて油彩にとりかかると、制作の意識があるだけに、人は自然を見るよりも、更に多くは画面を見る。こくいう所をどう描くかと、その描く個所の自然をいる。そこでは制作が主になって、画面をどのようにまとめ、表すかと、自分が主になるわけであった。
 作家が僻地にわけ入るのは、一枚の絵を生むためではなく、心を豊かにするためであった。作家は心を空しくして、対す自然に没入をする。そして眺めるところを水彩でーー自分では、それを見取り図と称しておられたが、後々の記憶のために、いつでも心を呼び出すことが出来るようにと、軽便で描きやすい水彩で、いらぬ物でもいとわずに、平等に克明に描かれるのであった。
 人に見せる物ではなく、たえて発表をしない図のこととて、その描き方には約束事がなくて自由である。重い荷物では歩けない。実際にはおそろしく足の強い人であったが、紙挟みに二つ折りの紙を用意する。水彩画用の用紙ではなく、和紙の鳥の子を切って、開くと横長にあるようにした。そして水彩絵具に鉛筆や筆、墨汁が用意をされている。
 紙挟みを肩にかけて、バッグにはいる荷物なら、どんな岩上でも坐れるわけである。水を多用して、水彩のテクニックを見せるわけではないだけに、絵具は油彩のように置かれている。そして鉛筆の消えたところや、強化をしたいところは、そこで作家ひとりの達筆から、墨汁の短線が八方におどって、生気と精彩をひきたてるのであった。
 この度発表をされる水彩画は、作家が終生篋底に秘めて、一般には、水彩のあることさえも知らせなかったものであった。それは作家の制作のための準備であり、併せて心の糧食であった。
 作家は高名になってから、まわりに蝟集する人が現れても、春秋は、以前と同じ一画人として、山に入り、海をたずねている。その足跡はおびただしい地にわたっているが、北方の地の水彩が少ないのは、北よりも中央から南方の、明朗や豊かさを好まれたからかも知れなかった。
 簡単な旅装で、どんな宿でも喜んで泊まって、すべては自然により親しく触れ合うためにと、一切をなげ棄て、旅に専念をして、それはおびただしい年数にのぼるが、早期では歳毎に訪れられたところに、海では室戸岬があり、山には伯耆の大山があった。そしてそれらは、それぞれに油彩の名作を生んでいる。
 妙高山もその後よく行かれたようであるが、富士はともかくとして、山の全容を望見して描くよりも、その山中に入って、山中の見事さを深くたずねられたのもこの作家であった。
 妙高はその特色からある形から知られているが、『妙高山中』の一作も深く山中に入っている。そして山間の生活にふれ、自分も山中の人と化して、山に問い、山の答えを聞くばかりに描いている。

 海は平面に展開をして、上下に大きな起伏をあらわさない。いきおい陸地と水、岩礁と波だけになると、何処でも構図は似たようになって、難しさにくらべると引き立たない。ことに洋画は、停止したものや固形を描くときには、自然に力を発揮するが、つねに動く風や雲、あるいは雨や波などを描くと、意外な不自由に会うものである。
 そのために海は一体に、岬や港というように、補助の力を大きくして描かれることが多かったが、海の動きとその力は、譬えようもない魅力であり、それを正面から究ねたずねたのはこの作家であった。
 室戸や紀州をはじめとして、岩礁と波が闘う有様を、作家はどれほどたずね、どれほど水彩で描かれたか。そして海だけを取り上げた制作は、油彩以上にも水彩でこそーーそれは水彩の軽快にのるからではあるが、それは作家の傑作ではないかというほどのすばらしい作品を生んでいる。
 その海洋の水彩は、時には雄大であり、華麗であり、見惚れるように芳醇である。海は、白波にのせて、生命をしぶきに飛ばせて動いている。かと思うと、碧りの中に幾層とも、奥知れぬ色彩の層をなして、その豊かさをうったえる。
 『周参見附近』の一点は、例外というほどにも芳醇から出て、それは剛健に迫っている。作家は自然を記録したのかもしれないが、それは制作よりも激しい気魄(きはく)であった。その日は海は鳴り、騒いだ。
 岩礁が浜を圧している。前方の岩が水に光っている。岩は右へと連なって、更に巨大な礁となり、重なり出て海に立っている。それを迎えて、左にも岩礁が相寄って海をさえぎった。
 海は苛立ち、風は怒って浪が打つ。白波は跳びちってまた襲う。見るうちに、岩礁も身をゆり、動くばかりである。その動きに動く瞬間を、画家の色彩感覚は、瞬時の間の変転を見事に美しくとらえている。殊にこの水彩は色調を厳かにして、それは剛健な海洋をうち出した。そして重い力のその中に、水平線上の淡い紅色が、晴れ空をつげて一片の優しさを添えている。
 と以上のような説明は、作品の幾点かに触れただけである。和作先生の水彩画は、その歿後(しご)から少しずつ画廊に現れたが、ことに親しい友人以外には、先生はそういう作品があることを、というよりもその油彩にそのような用意があることを、絶えて知らそうとはされなかった。
 水彩画は、日本では広く発達をして、今でも画壇にはおびただしい専門家を擁している。しかし先生の水彩は、無欲無心の上にあって、自然にわけ入る手引きとして描かれて、しかもそれが無双の修練から、それぞれに美しさを生んだものであった。そしてその中には、しぜんな流露であればこそ、その制作以上にも、先生の自然観のゆたかな美を告げ知らせるものが少なくない。
 その水彩が、最後にはどれほどの数であったかは知らないが、この度の発表は夥しい数にのぼっている。そしてそれが四散した後では、再びこれほどの集りを見ることが難しくなるのではないだろうか。
 天地の美を告げて、先生の水彩は美に充ちている。再びこれほどの信念の人、またこれほどの教養の画家をみることは、難しいことと思われるが、水彩は、油彩の制作以上にも先生の面目をあらわすものであった。
 いま画壇には、いよいよ人無きことを感じさせられるが、今更に真実の歩みの美しさを、思い尊うばかりである。
(美術評論家)
次へ