小林和作>エピソード
尾道に何を感じたのか、求めたのか
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小林和作 和作は昭和9年に尾道にきてから尾道周辺の海や山をたくさん描いている。
彼は尾道の風景に自らの芸術のありかを見出した。彼は尾道の風景に開かれた眼を以って、他の土地風景を見ようとし始める。

◆尾道の景色は寳玉である  私は、昭和九年、東京から尾道へ移って来たものだが、その時、尾道を撰んだのは、尾道が古い町で、いろいろの古い建物があり、且つ、尾道の海は、日本全体でも、最も景色の美しい多島海であるので、それらを繪にする事が目的であったのである。
 この私の目標は確實に的中して、尾道や附近の風土や景色は、研究すればする程に美しい。そこで私は、ここに喜んで永住し、又、生ある限りこの一帯の景色を写生して、それに依って繪を作る事を表しつづけて居る。
 私は、尾道の山と海の景色は、尾道側に、千光寺山、西国寺山、浄土寺山の構成の美しい三つの山があり、その山の中や、山麓には、美しい建物が多く、又、細長い尾道の海を隔て、向島があり、この島も亦、美しく、近年は尾道大橋が出来て、向島が発達して、ますます美しくなりつつあり、そこで、私は尾道もその一帯の景色は海岸としては、日本一である、と自慢しつつある。
 しかし、この一帯の住民諸氏は、別に日本の海岸の全体を歩いて見盡くしたわけではないから、尾道の美しさの大体はわかっても、私のようにこの景色を心醉して、日夜、眺めつつあるものの心境は十分には、わかって貰へぬらしいので、その辺も、私は時々遺憾に思ひつつあるのである。
 私は、若い頃には日本画をかき、三十歳代からは油繪をかいて来たが、しかし、いつの時代も風景画家であったので、日本全国の隅々は勿論、欧州の景色まで大体は見て知っているので、その目で見て、尾道とその一帯は、寳玉を彫琢して造った寳島のように見へる。私の任務は、この寳島の尾道を繪にし、又、文章にかき、その美しさ尊さを宣傅し盡す事にある。この一文も、そのためにかくのだが、以後も、生ある限り、いろいろにかいて宣傅したいと思っている。

(随筆・「尾道の景色は宝玉である(01−532、533)」)
01−532
01−532
小林和作 直筆原稿

この当時は現地で油絵を描いていた。
数も描けないし持ち運びも不便だと言っている。
なぜ水彩画を描くようになったかというと、油絵だと画材を持ち運ぶのにも苦労するし、時間もかかる。
水彩画だと現地の空気感、感じたものをストレートに表現できる。
水彩画の特徴は、紙に鉛筆と水彩で直写し、その上に墨ペンでアクセントをつける。
油絵は天候にも左右される。
そういうことに気を取られるよりは水彩画はその場で速いスピードで描けるということと。美しい構図を探してまわることが可能になる。(随筆58・地方画家の生活)
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