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小林家の倒産
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小林和作
01−507「洋梨の畑」
01−507「洋梨の畑」
「果樹園」
「果樹園」 (図録より転載)

昭和5年 林武や児島善三郎・福沢一郎らが独立美術協会を結成。
林重義に同会への参加を誘われるが、発足資金の援助だけして入会は断る。
昭和6年 9月北海道を旅行し、大量の油絵を描いているが、「洋梨の畑(01−507)」は奇抜な構図というので注目を集めた。他に「果樹園」がある。これが東京時代の最後の写生旅行になる。

まもなく小林家の財産を預かっていた弟が株で失敗し、全財産が一朝にして無くなり、邸宅も抵当に入れられ完全破産する。


・・・もっとひどい醜態をして、東京時代とまったく逆の不幸に陥り、世の物笑いになっていたであろう。この弟の作ってくれた金で、私は細々ながら昭和25年頃まで食いつなぎ、ついにその金が尽きた頃になって、どうやら絵が売れ始めて、まあまあ物笑いにならずすんだのである。(評伝136「東京の家」より抜粋)


寝耳に水の破産宣告のあとも、和作はしばらくの間東中野の邸にいた。
和作に言わせると、「何かの奇跡の私方の財産が復活しはせぬかとの空頼み」を持っていたのだろう。
途方に暮れていたに違いない。ただし悲嘆に暮れていたわけではない。
その頃の和作にまつわるひとつのエピソードを中川一政が書いている。
和作が破産したとは知らずに、中川は知人のために和作のところへ金を借りに行った。
かなりの額である。和作は何も言わずに貸してくれた。
あとになって、それが破産直後とわかって、中川は心ないことをしたと述懐しているが、和作にはそのように運命をあっさりと受け入れる潔さがあったらしい。
未練がましいことはいったことがなかった、と中川は書いている。
破産してもなお、友人たちに「親切の限り」をつくしていたのだろう。(評伝136)
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