平田玉蘊>エピソード
恋を追って上洛、そして傷ついた玉蘊は帰郷する。
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平田玉蘊 廉塾の塾頭はわずか1年2ヶ月で終わる。半ば勝手に京都へ行ってしまう山陽は上洛の前日、廉塾の塾生、三省を尾道へやって玉蘊に上京を促したのである。

山陽は茶山との間に波風を立てて、京都に赴いてしまった。父春水は息子は勘当、茶山も音信を断つ。そのような時期に玉蘊が母と妹を連れて、京都に上京する。
駆け落ちするなら、玉蘊一人でよかった。母や妹を伴っての上洛は、結婚を意識してのことだろう。

しかし山陽の状況が結婚どころではなかった。玉蘊に対する思いは本物であったが、時期が悪すぎると玉蘊親子に陳謝し、結婚の時期が来るまで、自分が落ち着くまで、待ってほしいと言うことしか出来なかった。玉蘊からしたら、きっと尾道を出る前に周囲に結婚報告をしてしまったであろうために、尾道には帰るに帰れなかったであろう。
入船裕二先生曰く:「電話一本ある時代であれば、避けられた悲劇である」

ようやく尾道に帰った玉蘊が残した手紙がある。

「…事のならざるは時節の未だ至らざると思いあきらめ居り申し候。広島辺の評判、備前あたりまでの評判、はずかしくて何辺へ出る心も致し申さず候、此の間画事を始めやや気をはらし候…」

当時、男性を追いかけて思いが遂げられず戻ってきた女性玉蘊に対して、世間の風当たりはどうだったのだろうか。山陽が神辺にいるときならまだしも、茶山や親を裏切って京都に出た男を親子ぐるみで追いかけていくなど、この3人の親子が絵の才能だけでなく、美しさでも名を馳せていただけに、やっかみや興味本位の中傷は激しかったに違いない。ここに玉蘊の美しさゆえの悲劇があるように思えてならない。

尾道に戻ってから、玉蘊は神辺の茶山を訪ねる。京都の土産として江馬細香の書いた磁盃を持参する。この細香という女性は後に山陽の弟子になり恋人と言われた。この運命のいたずらはやがて二人の女性も結びつける。
この日玉蘊は恩師の目を盗んでの上洛を詫び、茶山は自身も被害者だと、慰めたのではなかったか。茶山は終生、玉蘊を庇護した。
茶山の手紙に:「豊の絵が欲しいときには差し上げますから、おっしゃってください。豊は尾道の女流画家ですよ。」と周囲に宣伝していた。

この日の茶山の日記に玉蘊は「平田章(あや)女」と記してある。
玉蘊の通称が「豊」から「章」に変わって文献に登場するのはこの日記が初めてである。
山陽と玉蘊が将来をともにする約束を交わしたころ、山陽が命名したのではないだろうか。
ネーミングの名手山陽は、字画が少なく響きのよい名をつけるのが常だった。「章」の字も「あや」という洒落た訓みも、いかにも山陽好みである。「時節至らざる」ゆえと、傷ついて京都から帰ったあとも玉蘊が「章」を使ったのは、山陽への想いのあらわれと感じられる。

後に鶴鳴という年下の俳人が「良人(おっと)」として玉蘊の身辺にいた時期、玉蘊の通称は「豊」に戻った。しかし尾道の持光寺の位牌の裏に記された名は「平田 章」であった。
玉蘊にとって山陽は、さまざまな意味で、“特別の男性”であったと言える。(池田明子『頼山陽と平田玉蘊』より要約)
g−034「鷺図」賛 鶴鳴
g−034
「鷺図」賛 鶴鳴
(図録より転載)
g−035「豊」の落款
g−035「豊」の落款
g−036「章」の落款
g−036
g−037「章」の落款
g−037
「章」の落款
鷺の絵に鶴鳴の句が書かれている。
     そこに居る  鷺をねぶらす  水鶏かな     鶴鳴
鷺は伊勢から尾道に住み着いた鶴鳴でありクイナな玉蘊だと、鶴鳴は言いたかったのだろうか。

落款は「玉蘊」だが印章には「豊」の字がみえる。山陽が命名したと推測する「章」以前に使っていた通称の入った印を、玉蘊は敢えて用いたのかもしれない。(同)
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