平田玉蘊>エピソード
山陽は神辺の廉塾へ、その頃玉蘊の描いたのは
「山桜」と「つる薔薇」であった。
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平田玉蘊 ◆竹原での出会いから二人の間に交流があったという確証は残っていないが、やりとりがあったのであろう。
山陽が神辺に向かったのは満29歳の誕生日の早朝である。春水、茶山ともに山陽の“再生”を願って、この日を選んだのだろう。山陽が塾長として招かれたとき、彼の頭の中には玉蘊の住む尾道の近くに来れたという思いがあったのではないか。玉蘊もまた自分の師の茶山のもとへ山陽が来たことで、二人の思いは再燃したのではないか。神辺と尾道では手紙のやりとりも近い。山陽は塾生を使ってやりとりしていたと、郷土史家・入船裕二先生は指摘している。
g−027神辺の廉塾
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g−028神辺の廉塾
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神辺の廉塾
g−029「菅波信道一代記」
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「菅波信道一代記」
 

g−030 g−031「山桜図」
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「山桜図」(浄土寺蔵)
g−032 g−033「つる薔薇図」
g−032 g−033
「つる薔薇図」(浄土寺蔵)
この推測が当たっているとすれば、恋に心をときめかせ描いたのが、浄土寺に残る「つる薔薇図」と「山桜図」である。杉の戸に伸びやかに広がる花々からは、玉蘊の未来への夢が見え隠れしているような気がする。女性が寺院の中に絵を描くことを任されることが、若く美しく画家としても順調な時期であり、まさに順風満帆と感じていたであろうか。

中庭に面した庫裏の縁側とはいえ、名刹浄土寺の杉戸に描くほどの技量と名声を、すでに24歳の玉蘊は得ていたことが分かる。玉蘊自身、かなり緊張して取り組んだ作品であったろう。いまは風化してほとんど残っていないが、表のつる薔薇図の背景には金粉がかけられていた。右上から左下へさらに左上へと枝を伸ばすつる薔薇は、リズミカルに枝をはね上げている。金粉をバックに緑青で彩られた瑞々しい葉に、白の胡粉で花びらが丁寧にうめられている。金、緑、白と、制作当時は華やかで且つきわめて垢抜けた作品であったろう。
つる薔薇の裏側には山桜が描かれている。左下から右上へ伸びた幹の中ほどから反転した枝が弧を描いて反っている。葉桜は幹の雄渾に対し、量感の妙を巧みに配して華やぎをかもしだしている。空間を生かしたダイナミックな構図だ。(池田明子「頼山陽と平田玉蘊」)

◆同じ浄土寺の中には、その後、玉蘊の代表作となる「軍鶏図」がある。挫折し、不運に耐える軍鶏の姿に自分を重ねて描く日が来ることを、その時の彼女は想像したであろうか。
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