平田玉蘊>エピソード
牡丹になぞらえられた若き玉蘊
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平田玉蘊
菅茶山からも賛詩を受けている。 「国色天香図」に書かれた賛詩は「黄葉夕陽村舎詩」の中に「豊女子画く牡丹花」とタイトルが付いている。この絵の落款にはすでに「玉蘊」が使われていた。
  
茶山の賛詩は独特の丸みを帯びた難解な書体だが、墨つけのタイミングといい字配りといい、玉蘊が描いた二輪の牡丹に心憎いまで相呼応している。茶山は玉蘊の牡丹図に満足して、自らの賛詩を書き加えたことが想像できる。
茶山は、牡丹の花に玉蘊の容姿を重ねてうたった。(上掲書より要約)
   豊女史画く牡丹花     菅茶山
国色凝霞彩 国色 霞彩(かさい)を凝らす
天香湿露華 天香 露華(ろか)をうるおす
深閨無限思 深閨 限り無きの思い
画出牡丹花 えがき出す牡丹の花
(『黄葉夕陽村舎詩』巻8)

【この世のものとは思われない麗しい姿は 霞に染まり
この世のものとは思われない麗しい香りは 露さえ染める
奥深い部屋に 無限の思いに沈み
その人は描く この牡丹の花を】 (上掲書)
g−017「国色天香図」
g−017
 
g−019「国色天香図」
g−019
g−018 菅茶山
g−018 菅茶山
g−020「国色天香図」
g−020
g−022「国色天香図」
g−022
「国色天香図」 (図録より転載)
    
この時期、画家・玉蘊として意識しはじめた頃であろうか、落款には「玉蘊」とある。同時期に「豊女」とサインをしている絵がある。本人の中でも画家・玉蘊と平田豊の間を揺れ動いていた初期の段階であろう。
菅茶山が「豊女史」と書いたのは、まだ周囲からは以前の「玉の浦のお嬢様」というイメージが残っていたためか、賛詩もひらすら絵とともに可愛いく初々しい玉蘊を誉めたたえているような気がする。この絵に関し同時に、豊・玉蘊の二つの名前が残っていることは興味深い。
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