森谷 南人子 もりたに なんじんし
渡り蟹  
昭和29(1954)年  水彩・紙  39.7×27.5㎝
 
瀬戸内海で蟹といえば、一般的には渡り蟹のことをいいます。海岸の埋め立てなどで生息環境が失われたことなどが原因で、いまでは高級食材の一つです。森谷南人子のスケッチ画を見るだけで、豊かだった自然の風景が想像されます。戦後の動乱期が落ち着いたものの、まだまだ貧しかった社会が、逆に羨ましく思えてきそうです。
森谷南人子は、この渡り蟹を描いた後で食べたのでしょうか。描くためだけという画家もいます。さらには、時間の経過とともに朽ち果てるまでの段階を描く画家もいます。森谷南人子の場合はどうだったのでしょうか。モチーフのその後は、わかりません。身近な食材をモチーフにしていた森谷南人子が、おいしく食べたと想像したくなります。
 
明治22(1889)年 岡山県小田郡(現笠岡市)に生まれる。本名利喜雄(りきお)。
明治27(1894)年 神戸市に転居。神戸市立尋常小学校時代に上級生だった村上華岳
(当時は武田震一)と親交を結ぶ。
明治38(1905)年 京都市立美術工芸学校入学。
明治42(1909)年 同校卒業。京都市立絵画専門学校入学。
大正 5(1916)年 岡山県笠岡市に転居。
大正 7(1918)年 第1回国画創作協会展に「快晴」が選外となる。
大正 9(1920)年 尾道市に転居。
大正15(1926)年 国画創作協会会友に推挙される。
昭和 3(1928)年 国画創作協会日本画部解散。新樹社の設立に参加。
昭和 5(1930)年 第11回帝展に「苗代田」が入選。(以後、昭和13年の第2回新文展まで入選。)
昭和 7(1932)年 第11回日本南画院展に「暮秋野色」が入選。(昭和10年第14回展まで)
昭和24(1949)年 広島県美術展審査員となる。
昭和32(1957)年 尾道市美術展審査員となる。
昭和55(1980)年 尾道市立美術館で「画業75年森谷南人子展」が開催される。
昭和56(1981)年 3月11日に逝去。