平田 玉蘊 ひらた ぎょくおん
西王母図 せいおうぼず
江戸時代  顔料・絹 軸   100.2×34.3㎝
 
平田玉蘊は、江戸時代後期の尾道で活躍した女流の絵師です。
玉蘊の正しい読みは「ぎょくうん」ですが、尾道では昔からの言い習わしで「ぎょくおん」と呼んでいます。19歳で描いた「七福神図」に玉蘊の落款があることや、その翌年には父を亡くしたこともあって、早くから絵師として活動していました。尾道を拠点に絵師として生業を立て、頼山陽との恋愛が語り継がれてきました。しかし、玉蘊の絵画研究は近年始まったばかりです。
「西王母図」は、古代中国の伝説に登場する仙女を題材にしたものです。西王母が住む園には、三千年に一度開花し、さらに三千年を経て結実する桃の木があるといいます。桃には不老不死の効能がありことから、長寿を願う画題として広く扱われてきました。
 
天明7 (1787)年 尾道で木綿問屋福岡屋を営む平田新太郎の二女として生まれる。
通称は豊(とよ)、あるいは章(あや)という。父は「五峰(ごほう)」という画
号をもち、福原五岳に師事したという伝承がある。
寛政3 (1791)年 妹の玉葆(ぎょくほ)が生まれる。玉葆も絵師となる。
文化3 (1806)年 父平田新太郎が病没する。
文化4 (1807)年 頼山陽と竹原で詩会と舟遊を共にする。
文化8 (1811)年 母峰と玉葆(ぎょくほ)を連れて京都に2ヶ月程滞在する。
文化10(1813)年 玉葆に長男が生まれる。後に玉蘊の養子となり、画号を玉圃(ぎょくほ)という。
天保5 (1834)年 市内の慈観寺の本堂再建にあわせて、この頃襖絵「桐鳳凰図」が奉納される。
天保11(1840)年 母峰が没する。
安政2 (1855)年  6月20日、逝去。市内持光寺に葬られる。