頼 支峰 らい しほう
雲閣待鶴図詩 うんかくたいかくずし
墨、絹  137.0×42.2㎝
 
田能村直入の山水図「松蘿延鶴図」と対幅を成すものです。頼山陽の息子としては、弟の三樹三郎の方がよく知れているでしょう。尊皇攘夷運動の末に安政の大獄で斬首された三樹三郎の波乱の人生とは違い、学問を貫いたのが支峰でした。弟は父の性格を受け継いだようですが、兄支峰は祖父の頼春水に近い生涯を送ったようです。祖父が開学に関わった江戸の昌平坂学問所(通称昌平黌)に学び、明治維新後も同学問所の教授となりますが、職を辞して逝去するまで京都で暮らしました。
 
文政6 (1823)年 京都に生まれる。頼山陽の次男、頼三樹三郎の兄。
名は復、字は士綱、通称は復次郎。
一時期、広島に住み、後藤松陰、牧百峯に学ぶ。
その後、江戸に上洛し昌平黌に学ぶ。
帰洛後、父の塾を継ぐ。
慶応4 (1868)年 東京遷都に際し天皇に随行。昌平学校(昌平黌から改称)教授となる。
明治2 (1869)年 昌平学校大学小博士となる。
晩年は頼山陽の「日本外史」の標注本を刊行。
明治22(1889)年 京都で逝去。