小林和作>エピソード
佳境に入る和作の画業
前へ  次へ
小林和作 当時、和作の画業が佳境に入りつつあり、構図についての理論が確立された時期である。和作の芸術=自然への没入・共感・融合。 人間和作自身も自然の花が開くように大輪の花を咲かせつつある時期である。
「花」それは和作が常に心の中に抱いていたものだったのだろう、晩年彼自身の詩の中で花について詠っている。
小林和作 画像 龍膽の

花は冷めたき

秋の山に

人を恋うれど

日は沈むなり

行きゆきて

行きて盡きせぬ

絵の道を

今日は休みて

花を見るかな



昭和27年 5月、米仏など7カ国参加による第一回日本国際美術展に『春光』出品。
和作64歳。ピカソを始め各国の著名の作家たちが招待され出品。
日本からも巨匠・大家が参加。和作も2点を出品し第9位にランキングされた。
ただし1位から8位までを外国招待作家が占める。
和作は日本人画家として事実上1位にランクされた。
枯れるどころか、ますます和作は生命力にあふれていった。
巨人と言われ、鉄人と称されたピカソでさえ70を超えると作品に衰退が現れてくる。
だが、和作にはどの作品を見ても、その兆候を見ることはできなかった。
むしろ年々若返っていると感じられた。
和作に女がいたという流説がある。
秋、冬二度の大旅行はときたま浮気旅行と噂されたこともある。
九州へ旅行へ出かけたとき、岸壁下に転落し、不覚にも怪我をした。
その時、ある女性が同行していたことが夫人にばれた。
随筆で和作は、夫人が「夫の秋冬二度の写生旅行を快く思っていない」と書いている。
これはある程度事実であったのだろう。
和作は友人の小野に「80にして駄目になった」と悲しげな顔で語ったという。
和作はすべての想像の根源は一種のエロチシズムであるととく。
乾いた心、枯れた精神からは何も現れてこない。
前へ  次へ