森谷南人子>エピソード
初めて付けた雅号・雪山は
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森谷南人子

絵専校時代に吉阪という生徒が軍鶏を書いてうまくいかず困っていたのを華岳が筆をとって手直ししたら絵が生き返った。と南人子が驚きながら語っている。
時代はずれるが(明治40年)南人子が軍鶏(ちなみに同科三学年課題作)を絵を描いている。

(雅号・雪山)タイトルを雪山とつけた背景には尾道市立美術館学芸員によると、「光輝く瀬戸内の沿岸の町、笠岡に生まれ、神戸で育った利喜雄少年にとって雪の山と言えば、どんな山を思い描いたのでしょうか。日本を代表する(富士山)そうかもしれません。しかし現在までに南人子が描いた富士山は確認できていませんし、ここでは地理的に言って、また晩年の南人子が多くの大山を描いたという事実からも、叡山につぐ天台の霊場(志賀直哉より)大山ではないかと考える」
「伯耆大山春雪(03−156)」に類似。ほかに「伯耆大山清秋(03−538)」「大山秋景(03−541)」「本図・登山者風景(03−072)」が(大山煙雨)に類似。

03−156「伯耆大山春雪」
03−538「伯耆大山清秋」
03−156「伯耆大山春雪」
03−538「伯耆大山清秋」
03−541「大山秋景」
03−541「大山秋景」
03−072「本図・登山者風景」
「大山煙雨」
03−072「本図・登山者風景」
「大山煙雨」(図録より転載)


和作も膨大な量の大山の作品を残している。
まるで同行して写生したような類似作品を多く残している。なぜこの二作家はこんなにも大山に惹かれたのであろうか?なぜか大山の作品は晩年に多い。

また一方でこんな考え方は出来ないだろうか。
雅号・雪山は大山ではなく比叡山を意識したものではないか、
なぜならば、学校より臨むことができる山である。
そこには毎年薄く雪化粧をする山がある。
ちなみに「雪山」「深水」「深山」などの雅号を使う場合、
己が修行中の身であることを意識する場合が多いと聞く。
現に南人子も三つの雅号を持つ。
そのはじまりが「雪山」「梢月」「南人子」この流れを見ても、それが伺えると推測する。

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