平田玉蘊>エピソード
玉蘊讃歌 漢詩四題
入船裕二
平田玉蘊  玉蘊の生涯と作品を詩に詠んだ。
 第一首は、山陽との破鏡である。玉蘊は山陽を追うて京へ上り、あえなく振られて帰ったという巷説は誤りだった。玉蘊に上京を促したものの廉塾(れんじゅく)を出奔した山陽は結婚どころではなかった。時期が悪すぎた。二人は鴨川の堤で断腸の思いで別れた。尾道から大阪へ、当時は船である。行きは船脚の遅きを怨み、帰りはその速きを嘆いた。

 文化四年九月、頼一家竹原に集う。玉蘊姉妹、師春風に招かれて彩管を揮い、山陽詩を賦す。山陽、玉蘊初対面。さらに舟遊。春水(しゅんすい)(山陽の父)大いに喜び、詩を賦す。「米家(べいか)の舟子(かこ)は書画を称えられるもあに佳人の筆を携えて従うことあらんや。」米家は宋の文人、米。米家では舟子でさえ書面をよくすると称えられるが、舟遊に玉蘊姉妹のような佳人が加わることはなかろうとうたう。才子佳人運命の出会いである。
 文化六年十二月、山陽神辺廉塾の塾頭となる。文化八年二月、山陽、京へ出奔。塾を開き、また、にわかに塾を閉じ、蟄居。心躍らせて上京した玉蘊母娘空しく帰る。
 玉蘊の手紙がある。「…事のならざるは時節の未だ至らざると思いあきらめ居り申し候。広島辺の評判、備前あたりまでの評判、はずかしくて何辺へ出る心も致し申さず候…」
 婚姻の手筈は山陽の父春水と茶山の了解を除いて、すべて整っていたのではなかったか。玉蘊も叔父も、福山藩の要人も推進派だった。斡旋したのは慈仙という僧侶である。尾道を出立するとき、母娘は隣り近所や知人に結婚をうたって来たはずだ。母娘は帰るに帰れなかったろう。電話一本あれば避けられた悲劇である。帰りの船の船端を打つ波の音はまさに帰ってからの「妄言綺語」の序曲と聞こえたに違いない。雨中の相合傘は私の創作だが、後人はバンコクの涙を注ぐべきではなかろうか。
 文政元年、九州をめぐった山陽が田能村竹田(たのむらちくでん)を訪ねた一夕、話は玉蘊の悲恋に及んだ。竹田は「玉蘊姻事諧(ととの)わず。終にその郷に帰り、爾後これを恥じ、再び京に至らず」また、「山陽、長大息し、我実に背きおわんぬと言った」と書き残しているが、竹田が玉蘊の上洛を姻事、婚姻と認識していたことを強調しておきたい。

 第二首は文化十二年、広島の頼杏坪(きょうへい)宅での玉蘊送別の宴である。杏坪は茶山と並んで玉蘊の庇護者だった。広島に遊んだ彼女のために宴を張る。絵心のある若侍も列なっただろう。その席に山陽の父母春水・梅(ばいし)も連なる。山陽の玉蘊に対する所行は春水夫婦には大きな負い目だったに違いない。

 文化十二年九月二十二日 梅日記
 「晴、南(杏坪宅)へ玉蘊餞別に招かれ、来、暮過、こちらよりも御出、夜四つ頃静も行く。」
 朝は玉蘊が春水宅を訪ね、暮れには春水が杏坪宅へ、夜おそくついに梅も杏坪宅へ。この日記が記されてから約百八十年、山陽の母の日記によって玉蘊の濡れ衣が晴らされた。
 三句目の「淡粧、ジョウダ、勁秀」は山陽が初対面の玉蘊を「淡粧素服風神超凡なるは玉蘊なり」と評し、『竹田荘師友画録』に「玉蘊容姿ジュウダその指、繊にして秀、玉肪を削れるが如し。その画の妙なること宜なるかな。……」と、また、『画乗要略』の「玉蘊筆法勁秀…」とあるによる。

 第三首は尾道浄土寺にある「軍鶏の図」を詠んだ。女性に似ず力強い作品。眸は天空を睨み、けずめは岩をつかんで立つ。

 第四首は彼女の晩年をうたう。玉蘊鉄焦(てつしょう)(ソテツ)を愛して庭に多く植え鳳尾蕉軒(ほうびしょうけん)と称えた。また、古鏡を愛し来尾の文人墨客みな鏡に寄せる詩を贈った。

 『竹田荘師友画録』
 「玉蘊、平田氏。尾路(道)の人なり。画を売ってその母を養う。名ときに聞こゆ。居るところ鉄蕉を種え、その屋に篇して鳳尾蕉軒という。…つねに古鏡を愛し、十数枚を襲蔵す。茶山、杏坪の諸老友および山陽おのおの題贈あり」