平田玉蘊>エピソード
二、豊女から玉蘊へ
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平田玉蘊  『画乗要略』に記されている女性画家の多くは、其の女(娘)や配(妻)という風に紹介されている。本音の部分では生き生き輝いている女性たちも、建前は男性の付属品のように表現された。そんななかで「玉蘊、名は豊子、備後の人」に始まる記載は、ひときわ目をひく。
 玉蘊に初めて画を教えたのは、父五峰だったことは間違いあるまい。墓碑にも舞と画に秀でていたと記されている五峰は、尾道出身で大阪で一世を風靡した福原五岳に師事していたという。自らの才能で都に出て成功をおさめた郷土の先輩に、五峰は憧れ、見果てぬ夢を娘に託したことは、想像に難しくない。折しも新興勢力の台頭により、問屋制に支えられた五峰たち特権商人たちが、安閑とできない時世となった。五峰には娘に養子を迎え、木綿問屋福岡屋を継がせる気がなかったのではないか。五峰が亡くなる前に娘にしたことは、婿取りではなく、頼春風が付けたと伝えられる「玉蘊」という号を決めたことだった。
 文化三年(一八〇六)十二月、父五峰が没し、三十九歳の母峰と二十歳と十五歳の玉蘊姉妹が残された。この年、尾道を訪れた江戸の俳人張梅花は、かねて玉蘊の名声を聞き憧れていたと詩っている。また当時最も人気の高かった詩人管茶山の『黄葉夕陽村舎詩集』にも、同年の頃に「豊女史画く牡丹花」が載せられており、すでに玉蘊は画家として立っていたと言える。のちに茶山は、玉蘊の画が入用ならさしあげるという手紙を江戸の伊澤蘭軒宛てに書いているが、妙齢の女性画家と当代きっての老詩人の取り合わせはさぞ人気があったことだろう。
 翌文化四年(一八〇七)九月、玉蘊姉妹は竹原の頼一門の集いに招かれた。そこで脱藩、幽閉を経て、廃嫡となった山陽と出会う。その出会いを山陽は「竹原舟遊記」に残し、山陽の父春水も玉蘊姉妹にうっとりしている心情を詩った。このとき山陽は玉蘊に理想の女性像を見たらしい。後年、山陽が手紙に書いた理想の結婚観も女性観も、このときの玉蘊のイメージさながらである。清楚なルックスと教養。父の後継ぎというエリートコースを捨てた山陽は、文筆家の夫と画家の妻として都で生活する二人の青写真さえ描いていたようだ。
 文化八年(一八一一)、京都で私塾を開いた山陽のもとへ約束を守って、玉蘊は母と妹と共に上京する。しかし玉蘊母娘を迎えた山陽は、下手をすると再び広島へ連れ戻され幽閉されかねない状況だった。やむなく帰郷した玉蘊はスキャンダルの渦にうちひしがれながら、ようやく「画事をはじめ、悄気をはらし候」と、ひらすら画に打ち込んだのである。
 のちに山陽は田能村竹田に玉蘊とのことを「吾、実に負き了んぬ」と悔いた。竹田は玉蘊が「爾後これを恥じ再び京に至らず」と記したが、ここは山陽の招きに二度と応じなかったと読むべきだろう。このとき玉蘊は画家として生涯自立することを決意したとみえる。その苦悩が、浄土寺に残る衝立「軍鶏図」へと結実した。甘い雰囲気の「唐美人図」を描いた少女は、心の叫びを表現する画家へと成長したのだった。
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